追悼連載~「コービー激動の41年」その20 存在感を示した夢の祭典

[ 2020年3月7日 08:00 ]

デビューからしばらく「苦闘」が続いた故ブライアント氏(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】1997年2月8日。コービー・ブライアントはオールスター・ゲーム前日のルーキー・チャレンジ(現在はライジング・スターズ)とスラムダンク・コンテストに出場するためキャバリアーズの本拠地ガンド・アリーナ(オハイオ州クリーブランド)にいた。翌9日の本番のハーフタイムにはNBA創設50周年を記念してハーフタイムに「伝説の最強50人」が紹介され、これに選出されたジェリー・ウエスト、ジョージ・マイカン、エルジン・ベイラー、カリーム・アブドゥルジャバー、ウィルト・チェンバレン、マジック・ジョンソン、ジェームズ・ウォージーといったレイカーズのOBたちも出席。この年のオールスターは過去と現在をつなぎあわせたまさに“夢の祭典”となっていた。

 ルーキー・チャレンジにはレイカーズでも同期のデレク・フィッシャーやスティーブ・ナッシュ(サンズ)が西軍、さらにレイ・アレン(バックス)やアレン・アイバーソン(76ers)が東軍のメンバーとして出場。試合は東軍が96―91で勝ったが、デビュー以来、ほとんど実績を残していなかったコービーは31得点をマークするなど、日々のうっぷんを晴らすかのような大活躍を見せた。19得点を挙げてMVPとなった東軍のアイバーソンは「ゲームを作ったのはあいつだ。カレッジ・バスケを知らないのによくあんなことができるもんだ」と西軍の18歳を称賛。敗れたとはいえ、レギュラー・シーズンとは違った評価がコービーの周囲に漂い始めた。

 ルーキー・チャレンジとは言え50周年記念イベントの一環。監督は東軍がセルティクスの名将だったレッド・アウアーバック、西軍はかつてニックスを率いてファイナル制覇を2度達成しているレッド・ホルツマンという豪華な面々だった。

 ここにも運命的なものを感じる。ホルツマンはニックスのスカウト時代、当時ブレッツ(現ウィザーズ)のスカウトだったジェリー・クラウス(その後ブルズGM)を出し抜いてノースダコタ大のフィル・ジャクソンを1967年のドラフト(2巡目、全体17番目)で指名した超本人。ジャクソンはその後、レイカーズでコービーと“合体”することになるのだが、両者が出会う前にホルツマンが2人をつなげていたようにも思える。

 ホルツマンは1998年11月13日に78歳で死去。だからコービーの「輝かしい未来」は見ていない。しかし彼はルーキー・チャレンジで垣間見た若者の姿にある種の確信を抱いていたと思う。「こいつはただ者ではない」。ガンド・アリーナでたたき出した31得点は、かつての名将に捧げる最高の贈り物だった。

 さてルーキー・チャレンジの次に行われたのが恒例のスラムダンク・コンテスト。もともと1976年に当時NBAの対抗組織だったABAが始めたイベント(優勝はジュリアス・アービング)だったが、1984年からはNBAがその看板を継承し、さまざまな伝説を残している。

 1997年のコンテストに出場したのはクリス・カー(ティンバーウルブス)、マイケル・フィンリー(マーベリクス)、ダービン・ハム(ナゲッツ)、ボブ・スーラ(キャバリアーズ)、レイ・アレン(バックス)、そしてコービーの計6選手。さらに5人の審査員の中にはアービングがいた。「審査員の中にドクターJ(アービングの愛称)のような偉大な人がいてくれてよかった。彼はダンクのステータスを高めた人。父(ジョー=76ers時代)とも一緒にプレーしていたし、彼のダンクを見て僕は育った」とコービーは感無量の面持ちだった。それはNBAの壁にぶちあたって悩んでいたルーキーを別なアングルから覚醒させることにつながった。

 さてコービーは多数のレジェンドの前で何を見せたのか?それは23年も経過した今でも、多くの若者を刺激する永遠の“一発芸”となった。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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2020年3月7日のニュース