追悼連載~「コービー激動の41年」その17 家族同伴の移住に見る米国社会

[ 2020年3月4日 09:45 ]

2009年、在りし日のブライアント氏と次女ジアナさん(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】1996年の夏。コービーだけでなく「ブライアント家」は父も母も姉も東海岸から西海岸へと引っ越してきた。

 アフリカ系アメリカンの社会では家族に優秀なプロ・スポーツ選手がいる場合、卓越したその1人を中心として“運命共同体”ができやすい。私が接したNFLの某アフリカ系のトップ選手には父親がいなかったが、彼は母や兄弟、さらにいとこまで養っていた。試合後、ロッカールームを訪れると若者が1人、シャワーを浴びているその選手の前に立っていた。「何をしているの?」と聞けばボディーガードなのだと言う。その有名な選手は「Brother」と呼ぶ面々にバーや理髪店などを経営させ、それでも仕事がなかった面々を自分のボディーガードとして雇っていたのである。

 だから、家族の面倒を見ることを決意したコービーが「こっちに来ないか」と両親と姉に声をかけていたとしてもうなづける話。日本人なら、たとえ家族であってもそんな誘いに乗るのは甘えにつながるし、大人なのに自立していないのはいかがなものかと批判されるかもしれないが、コービーが両親と2人の姉と同居するようになった背景には、アフリカをルーツとする民族的な考え方があるように感じられる。

 かくして西海岸での新生活が始まった。家族のために最初に買った車はレンジローバーとBMW。高校を卒業してすぐに買うような車ではないような気もするが、それは「これからもっと稼ぐ」という彼なりの覚悟の表れだったような気もする。

 米国内では7月19日にアトランタ五輪が開幕。男子バスケットボールでは米国がチャールズ・バークリーらを主力とする「第2次ドリームチーム」を送り込み、話題をさらっていた。それに比べればコービーの周囲は静かだったかもしれない。レイカーズの一員として最初に巡ってきた実戦はサマーリーグ。ルーキーやレギュラー定着を目指す若手の登竜門だ。初戦の舞台はロサンゼルス郊外のロングビーチ。五輪の余波で注目度は低いかと思われた。ところが会場となったロングビーチ・ピラミッドというアリーナは座席を通常よりも多い5000席にしたものの、約2000人が入りきれなかったというからコービー人気はデビュー前から凄かった。

 「試合に勝ちたい。監督が自分にリーダーシップを求めるなら、それに応えてみせる」と張り切ったコービーは26分間で27得点をマーク。高卒選手のデビュー戦としては上場の出来だった。結局サマーリーグには4試合に出場して平均25・0得点、5・3リバウンド。ところが9月2日のピックアップ・ゲーム(練習試合)でダンクに行った際に手首を骨折。ここで首脳陣がブレーキをかけた。つまり休養を命じたのである。コービーは練習したくてたまらない様子だったが、チームの命令には逆らえない。早くも高校時代とは違った立場に立たされてしまった。

 再び注目を集めたのは10月14日のメディア・デー。この日はキャンプ・インする直前に報道陣に許される言わば合同記者会見だ。レイカーズの本拠地「フォーラム」に集まった選手たちに記者たちが群がって矢継ぎ早に質問を浴びせていた。そして最も記者の数が多かったのがコービーの周囲。ようやく手首の故障も回復し、この取材を終えたあとに久々にフル・コンタクトの練習に参加する予定になっていた。ここで新加入のシャックことシャキール・オニールが公の場としては初めてコービーに声をかけた。2人はその8年後、いったん犬猿の仲となって決別するのだが、実はシャックが口にした何気ない言葉がその後の運命を決めていたような感じだった。新人なので笑顔を作らざるをえなかったレイカーズの背番号8。戦力的なマッチングはベストだったが、人間的には最初から“暗雲”が漂う出会いだった。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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