“日本人不可能”種目800メートルに挑んだ藤本正子さん 後輩に受け継がれる“チャレンジ魂”

[ 2019年9月25日 10:00 ]

2020 THE YELL レジェンドの言葉

東京五輪の1年前、1963年インカレに出場した藤本正子さん(左)
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 100年を超す五輪史の中で、陸上女子800メートルに出場した日本選手はわずか3人しかいない。その中の一人が64年東京五輪代表の藤本(旧姓木崎)正子さん(75)だ。28年アムステルダム五輪の同種目で銀メダルを獲得した人見絹枝の再現はならなかったものの、日本人には不可能と言われた過酷な種目で世界に挑んだ藤本さんのチャレンジ精神は、今でも高く評価されている。

 100~400メートルの短距離は何よりもまず「スピード」が要求される。逆に3000メートルからマラソンまでの長距離は「持久力」が大切になる。その中間の中距離(800~1500メートル)は、「スピード」と「持久力」という相反する2つの要素を同時に身につけなければ走れない。欧米選手よりも体力的に劣る日本選手にとってはまさに至難の業で、過去に3人しか出場していないという事実がその過酷さを示している。

 もともと短距離選手だった藤本さんがそんな難種目に取り組むようになったのは、岐阜・長良高2年の時だった。ちょうどその年、アムステルダム大会以降は除外されていた女子800メートルがローマ五輪で32年ぶりに復活。陸上部の顧問から中距離への転向を勧められた藤本さんは、言われるがままに練習を始めた。

 「中学生の頃はソフトボールをやっていて、足は速い方だったと思います。でも長い距離は校内マラソンで走ったことがあるぐらいで、スピード練習と持久力強化を同時にやるのは本当につらかった。走り終わると尻が割れるようになって…」

 「尻が割れる」というのは陸上競技独特の表現で、400メートルや800メートルを全力で走った時に太腿の後ろから尻にかけて感じる痛みのこと。いわゆる「ケツワレ」に苦しみながらも藤本さんは必死に練習に取り組んだ。

 トラックでのスピード練習は100メートルを10本などインターバル走が中心。持久走は距離よりも時間を重視して1回40~50分を目安に走った。香川のこんぴらさんでの強化合宿では、1300段を超す階段を何度も上り下りすることもあった。

 当時はまだ中距離のトレーニング方法は確立されておらず、全てが手探りの中での練習だった。それでも猛練習の効果は着実に表れた。高3で初めて日本選手権を経験。中大に進んだ翌62年の日本選手権では2分20秒2で見事に初優勝。一躍、東京五輪代表の有力候補に躍り出た。

 「当時は今みたいにみんなが五輪、五輪と騒いでいたわけではありません。でも、五輪が大きな大会だということは分かっていたので、出られるものなら出たいと思っていました。ただ、一度も海外の選手と走ったことがなかったので、どんな走りをするのか全然分かりませんでした」

 63年7月のユニバーシアード予選(千葉)では2分15秒2の日本新を樹立。プレ五輪として10月に国立競技場で行われた日本選手権でも、2分12秒8で日本記録を更新した。ところが一緒に走ったオランダの選手は2分4秒9の驚異的なタイムではるか先にゴールを駆け抜け、藤本さんは完敗を喫した。

 「それまで人見絹枝さんのことは名前ぐらいしか知りませんでした。ずっと昔に外国の選手と競って銀メダルを獲ったんですから、いかに凄かったのかがその時やっと分かりました」

 世界との差を痛感した藤本さんはそれでもひるむことなく猛練習を続け、念願だった五輪のスタートラインに立つことができた。

 レース当日の64年10月18日は朝から冷たい雨が降り、国立競技場のアンツーカー(人工の土)は水浸しになった。しかも藤本さんは大会前に右足の甲を痛め、練習ができない不安からじんましんを発症するなど、コンディションは最悪だった。案の定、予選第3組でのレースはスタートから外国選手に大きく引き離された。タイムも自己ベストに遠く及ばない2分18秒6で7位。準決勝には進めなかった。

 「やっぱりプレッシャーはありました。しかも足の故障でスピードがなかった。ゴールした直後はみじめで、申し訳ないという気持ちでいっぱいでした」

 伝説の人見絹枝のようにメダルは獲得できなかった。だが、日本の女子選手が800メートルを走ったという事実は、55年たった今も何ら色あせることはない。そのチャレンジ精神は後輩たちにも脈々と受け継がれている。

 「私の時代は五輪は人生1回のチャンスでした。だからこそ来年の東京に出る選手たちには全力で頑張ってほしい。そのために一番大事なのは故障をしないこと。今の選手はメンタルも体もケアが行き届いているけど、ケガだけはいつ起きるか分からないから。ベストの体調で臨めばきっと素晴らしい結果を出してくれると信じています」

 ≪指導陣には三段跳びレジェンド≫64年東京五輪の陸上競技は総監督が28年アムステルダム五輪金の織田幹雄、監督が32年ロサンゼルス五輪金の南部忠平、そしてヘッドコーチも36年ベルリン五輪金の田島直人と、三段跳びの伝説の名選手が勢ぞろいした。織田には高3の時に「かかとを腿の後ろにつけるように走ると足が前に出るようになる」とアドバイスされ、それ以後好記録を連発。「先生方から教わったことは全部私の財産です」と今でも感謝している。

 ≪現役引退後もチャレンジ魂 審判資格取得≫五輪後に現役を引退した藤本さんは母校の中大で後進の指導に当たっていたが、73年に結婚。「子育てが忙しくなった」こともあって現場から離れた。それでもチャレンジ精神は健在で、後に審判員の資格を取得。東京国際女子マラソンやスーパー陸上などのビッグレースでスターターを務めた。現在も中大の五輪代表選手らで組織される「白門オリンピアンズ・クラブ」の理事として精力的に活動を続けている。

 ≪人見絹枝 本職敗退も未体験800メートル挑戦で銀メダル≫これまで五輪の女子800メートルに出場した日本選手は藤本さんの他には、28年アムステルダム五輪の人見絹枝と04年アテネ五輪の杉森(現姓佐藤)美保の2人だけだ。NHK大河ドラマ「いだてん」にも登場した人見絹枝は元大阪毎日新聞運動部記者で、アムステルダム五輪には日本選手団43人中ただ1人の女子選手として参加した。本職の100メートルは予選こそ1位で通過したものの、続く準決勝は12秒8の4位で敗退。「このままでは日本に帰れない」とエントリーだけはしてあった800メートルに再挑戦した。それまで一度も中距離を走ったことはなかったが、予選を2分26秒2で通過すると、翌日の決勝でも2分17秒6で2位に入り、見事に日本の女子選手初のメダルを獲得した。藤本さん以来40年ぶりに出場した杉森は2分2秒82の予選2組6位で予選落ちだった。

 ◆藤本 正子(ふじもと・まさこ)1943年(昭18)11月7日生まれ、名古屋市出身の75歳。旧姓・木崎。幼少の頃、疎開で岐阜県美濃加茂市へ。同市の山之上中(現東中)から長良高―中大卒。日本選手権は62、64年の2度優勝。中大卒業後はコーチとして後輩の指導なども行った。現在は中大の五輪代表経験者で組織する白門オリンピアンズ・クラブの理事を務めている。

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