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【我が道 西野朗(10)】FW“転向”釜本さんに並んだ

[ 2026年4月21日 00:10 ]

コーチ兼任の頃、ブラジルキャンプでの1コマ。後列中央が私
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 【我が道・西野朗】 日立でサッカーを続けていたが、私自身もチームも思うような結果が残せていなかった。既に入社7年が過ぎ、29歳になった。日立では「5年間はサッカーをやって、その後は社業に」という流れがあり、「そろそろ終わりかな」と思うようになっていた。私は一生サッカーと関わりたいと思い、大学でも教職課程を取り、「30歳になったら会社を辞めて埼玉に戻り、教員になろう」と考えていた。浦和西の恩師・仲西先生に相談すると、「日立に恩返ししなさい」と、一蹴されてしまった。

 85~86年シーズンから長岡義一さんが監督になると、私は主将に任命された。30歳でチーム最年長、同期の久米も現役を引退して社業に戻っていた。チームは下位に低迷しており、「立て直すためには、割り切って点を取ることに集中しよう」と考えた。長岡監督も私をMFではなく、FWで起用。すると前年までの7年間で16得点しか決めていなかったのがうそのように点が取れた。シーズン終盤、86年2月8日の三菱重工戦(西が丘=現味の素フィールド西が丘)で8試合連続ゴール、釜本邦茂さんが持っていた日本リーグ記録に並んだ。新聞にも大きく取り上げられたが、私自身は「それよりチームが勝たなくては」と冷静だった。新記録がかかった16日のフジタ戦(駒場サッカー場)では、ピタリとマークされて1本もシュートが打てなかった。それでもその年は12得点をマークし、チームも8位、私はベストイレブンにも選ばれた。

 翌86~87年は最下位(12位)に終わり、チームは初めて2部に降格した。87~88年はチーム事情からDFに回ってリベロを務めた。2部のベストイレブンに選ばれたが、本来のプレーではなく、再び引退を考えた。私には教員という“保険”があったが、埼玉県の教員採用試験の年齢制限が34歳までで、最後のチャンスが迫っていたからだ。浦和西の恩師・仲西先生は私の仲人でもあり、私の人生を考えて「よし、俺の後継者に」と言ってくれると思っていたが、「何を言っているんだ。教員はそんなに甘いものではない。生活指導は大変だし」とぴしゃりとはねつけられてしまった。

 チームは2年で1部に復帰し、私はコーチ兼任で日立に残った。ブラジルで活躍していた水島武蔵が入社することになり、会社から私がつけていた背番号8を譲るように言われ、32番になった。シーズン途中で3人のGKのうち2人がケガをしたことがあり、急きょ1週間、GKの練習をした。強いシュートを受けて左手小指を脱臼、今でも曲がりにくい。自分でも今でいうポリバレントだと思った。翌90年、私は引退を決めた。35歳の誕生日前日の4月6日に西が丘で行われた最終戦は日産が3―0で勝って2年連続リーグ優勝を決め、オスカー監督が胴上げされた。日立は2度目の2部降格、ピッチの反対側で私の引退セレモニーが行われ、花束をもらった。日本リーグ1部143試合29得点10アシスト、日本代表49試合7得点、うち国際Aマッチは12試合1得点。これが私の全成績だった。

 ◇西野 朗(にしの・あきら)1955年(昭30)4月7日生まれ、埼玉県出身の64歳。浦和西―早大―日立でMFとして活躍。大学1年生から日本代表に選出。引退後はアトランタ五輪代表監督、柏、G大阪などの監督を経てW杯ロシア大会で日本代表監督を務めた。現タイ代表兼U―23代表監督。

(この原稿は、2019年8月10日に、スポーツニッポン新聞紙上に掲載されたものをそのまま使用しています。肩書や記録、名前、地名などは、すべて掲載当時のものです)

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