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【我が道 西野朗(6)】憧れの早稲田進学へ猛勉強

[ 2026年4月21日 00:06 ]

浦和西の正門。サッカーと勉強に明け暮れた3年間だった
Photo By スポニチ

 【我が道・西野朗】 正月の高校選手権は「埼玉を制したのだから全国大会も勝てる」と思い、自信もあった。この頃、日本リーグはあったものの、アマチュアが真剣勝負をするという意味では、高校選手権が最高峰の大会だった。みんな「選手権で燃え尽きよう」と決意していた。出場が決まった後に東北一周の修学旅行があったが、「それより練習したい」とサッカー部の同期12人で話したほどだった。結局修学旅行に参加したが、同級生と一緒に騒ぐこともなく、夜は早々に布団に入ってコンディション維持に努めた。朝も早起きして散歩し、バスの中でも寝ることはなく、背筋を伸ばしてすごした。

 年が明けて、大阪へ向けて出発した。浦和駅での見送りはすごく、「みんなに期待されている」という思いは格別だった。だが、こういう経験は初めてで、みんなどこかふわふわしていた。浦和西は2回戦から出場、1月5日の初戦はうつぼサッカー場で大分工と対戦、私のゴールなどで2―0と快勝した。3回戦は長居競技場(現ヤンマースタジアム長居)で相模工大付属相模との対戦、パスミスからカウンターで失点して0―1で敗れた。経験のなさだった。私にとって初めての全国大会は2試合で終了、「ここで負けてしまうのか。やれると思っていたのに」と頭の中が真っ白になった。

 ただ、切り替えが早いのも私たちのいいところだった。敗退したその日から受験勉強に取り組んだ。私も「ここで頑張らないと大学でサッカーができない」と考え、参考書を開いた。志望校は早稲田大学だった。1年生のときから早大一本で、ホームルームで一人ずつ、将来の夢について語ったとき、「サッカーを頑張り、早稲田へ行って、えんじのユニホームを着たい」と宣言した。1年生の春にサッカー部の仲西先生に勧められて、西が丘で大学の試合を観戦した。そのとき試合をしていたのが早大で、「うまいし、強い」と感じ、この日からえんじのユニホームにあこがれた。

 1年生で具体的な目標を言ったのは私だけだった。担任ではなかったが、私の発言を聞いた英語の萎沢(しぼさわ)先生に教官室へ呼び出された。「早稲田に入れるように、学校の勉強とは別に、きょうから毎日課題を出す」と言われた。毎日サッカーの練習が終わると教官室へ行って課題を受け取り、翌日の練習後に提出、また新しい課題を受け取る――これが2年半続いた。練習が終わって帰宅し、夕食を終えるとバタンキューだったが、この課題だけは夜中に起きてやったり、早起きしてやった。結構きつかったので「なんで僕だけですか」と、泣き言を言ったこともあった。「みんなの前で言ったんじゃないのか。早稲田に行きたいなら、少なくてもこれぐらいやらないと無理だ」と言われ、3年生の冬まで続いた。いま思えばありがたいことだった。

 ◇西野 朗(にしの・あきら)1955年(昭30)4月7日生まれ、埼玉県出身の64歳。浦和西―早大―日立でMFとして活躍。大学1年生から日本代表に選出。引退後はアトランタ五輪代表監督、柏、G大阪などの監督を経てW杯ロシア大会で日本代表監督を務めた。現タイ代表兼U―23代表監督。

(この原稿は、2019年8月6日に、スポーツニッポン新聞紙上に掲載されたものをそのまま使用しています。肩書や記録、名前、地名などは、すべて掲載当時のものです)

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