【我が道 西野朗(8)】ケガが多かった大学時代
Photo By スポニチ
【我が道・西野朗】 9月になると、ようやく大学のサッカーに集中することができた。毎年1月から8月までは日本代表の活動が断続的に続き、チームを離れることが多かったからだ。おかげで私は8月の早大サッカー部恒例の菅平合宿には一度も参加できなかった。「死のキャンプ」と言われ、学生生活のいい思い出でもある。OBの間で話題になるが、一度も参加していないので会話に入れなかった。
授業も行けるときは必ず出席した。毎朝7時38分発の電車で東伏見から高田馬場へ向かい、午前中は授業を受け、午後は2時半から東伏見で練習という日課だった。1年生で日本代表に選ばれたおかげで取材を受けることも多かった。私は自分だけがクローズアップされるのが嫌で、マネジャーにうながされて渋々取材を受け、仏頂面をした写真がサッカー専門誌の表紙を飾って冷や汗をかいたこともあった。
9月に関東大学リーグが開幕した。対戦相手からは「生意気だ」とターゲットにされた。だからというわけではないが、大学時代はケガも多かった。1年生の9月には関東大学リーグ第2戦、東農大戦(西が丘=現味の素フィールド西が丘)で、ゴール前の競り合いでヘディングしたとき、相手とぶつかって左の陥没骨折、前半10分で交代して救急車で病院に運ばれた。「私が交代すると、スタンドにいた女性ファンの半分がいなくなった」と、人づてに聞いた。3年生の5月の早慶定期戦(国立競技場)では、相手のひじが入ってのどの骨が縦にわれた。2点決めていたし、最後までプレーしたかったが、のどに血がたまるのが自分でも分かった。つばを吐くと血の塊が出てきた。さすがにプレーはやめたが、医師に「あと5分プレーを続けていたら窒息死していた」と言われたほどだった。
試合後は女性ファンが出待ちしていたので、駅まで歩くのは大変だった。西が丘から近くの駅までタクシーで行ったこともあった。帰りがけにサンドイッチなどを抱えきれないほどいただいたので、タクシーの中でチームメートにおすそ分けしたら、「私が一生懸命つくったのを、別の選手が食べている。ひど~い」と窓越しに悲鳴が聞こえたこともあった。
当時の早大はメンバーがそろっていた。同期に松浦敏夫、1年下に加藤久、2年下に岡田武史。関東大学リーグでは2年生、3年生と連覇、3年生の時は7戦全勝で完全優勝だった。だが、同年の大学選手権は2回戦で敗退した。4年生で試合に出ている人は少なかったが、バンカラ気質が前面に出ていて結束力もすごかった。その先輩たちが卒業して私たちが4年生になり、3連覇を目指したが、1勝3分け3敗で8チーム中5位、入れ替え戦に回る寸前だった。私の代も肩書を持った選手ばかりで仲も悪くなかったが、半分近くが浪人して入学してきて年齢がバラバラだったことなど、まとまりがいまひとつ足りなかったことが原因だった。
◇西野 朗(にしの・あきら)1955年(昭30)4月7日生まれ、埼玉県出身の64歳。浦和西―早大―日立でMFとして活躍。大学1年生から日本代表に選出。引退後はアトランタ五輪代表監督、柏、G大阪などの監督を経てW杯ロシア大会で日本代表監督を務めた。現タイ代表兼U―23代表監督。
(この原稿は、2019年8月8日に、スポーツニッポン新聞紙上に掲載されたものをそのまま使用しています。肩書や記録、名前、地名などは、すべて掲載当時のものです)
サッカーの2026年4月21日のニュース
-
【我が道 西野朗(11)】経験ないままユース代表監督
[ 2026年4月21日 00:11 ] サッカー
-
【我が道 西野朗(10)】FW“転向”釜本さんに並んだ
[ 2026年4月21日 00:10 ] サッカー
-
【我が道 西野朗(9)】日立でサッカー人生初の挫折
[ 2026年4月21日 00:09 ] サッカー
-
【我が道 西野朗(8)】ケガが多かった大学時代
[ 2026年4月21日 00:08 ] サッカー
-
【我が道 西野朗(7)】19歳で日本代表デビュー
[ 2026年4月21日 00:07 ] サッカー
-
【我が道 西野朗(6)】憧れの早稲田進学へ猛勉強
[ 2026年4月21日 00:06 ] サッカー


















