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【我が道 西野朗(7)】19歳で日本代表デビュー

[ 2026年4月21日 00:07 ]

大学1年、ユース代表候補合宿で(右)。中央は中大の久米一正、左は同・早野宏史
Photo By スポニチ

 【我が道・西野朗】 正月の高校サッカー選手権の前後で、人生を左右するようなことが起きた。まずは日本リーグの強豪・三菱重工から誘いがきた。「ブンデスリーガ(西ドイツ)に留学し、戻ってきたらウチで」という好条件だった。サッカー部の仲西先生は「いい話だから」と三菱重工へ入社することを勧め、同社の幹部と二宮寛監督が自宅まで来て両親を説得した。両親も三菱重工を勧めたが、私は「大学行くと言っているだろ」と譲らず、高校入試のときと同じように両親と対立した。ただ両親は「留学はいいが、大学に行けないのは」と、引っかかっていたところもあって、最終的には大学進学で落ち着いた。

 もうひとつ問題が起きた。高校選手権が終わった頃、日本サッカー協会から「日本選抜に選びたい」と打診された。1月13日から20日まで、コンスタンツァ(ルーマニア)、ジュベントス(ブラジル)、日本代表、日本選抜が対戦する3カ国対抗国際サッカーだ。早大を目指して、高校選手権後は受験勉強に集中するつもりだった。サッカー部の仲西先生には「行くか?」と勧められたが、私は断るつもりだった。同時にユース代表候補も辞退した。こちらも1月下旬の候補合宿に行けないからだ。「代表に呼ばれたのに辞退するとは」と、日本サッカー協会も困惑し、新聞にも取り上げられたほどだった。

 私は1974年(昭49)4月、希望どおりに早稲田大教育学部に入学した。同じクラスには後に巨人にドラフト1位指名される野球部の山倉和博がいた。サッカー部の寮は四畳半に3人が生活し、二段ベッドに2人、畳に布団を敷いてもう1人が寝た。小さな机がひとつあったが使うことはなかった。2年生になったら出てもよかった。私は浦和の実家からも通えたが、居心地がよく4年間いた。もっとも日本代表の活動などで、一年間の半分はいなかった。

 サッカー部は日本代表のDF古田篤良さんやFW碓井博行さんら「日本代表」などの肩書を持っている選手ばかりだった。私は入学前の3月末から高校選抜の一員として東南アジアに遠征、5月には日本ジュニア選抜に選ばれ、戒厳令下のソウルで開催された朴大統領杯に出場した。8月にはついに日本代表に選ばれた。ヘルタ・ベルリン(西ドイツ)と3試合、続いて米国アマ代表と3試合が組まれていた。8月2日に神戸中央球技場で行われたヘルタ・ベルリン戦の後半開始から藤島信雄さん(日本鋼管)に代わって出場、19歳と116日での日本代表デビューだった。日本代表は憧れだったが、大学生はほとんどいなくて私が一番若く、「大人の中に一人だけ入れられた」ようで肩身が狭く感じてしまった。試合が終わるとスパイクのひもの3分の2が切れていた。相手に激しく当たられたからだが、試合中は夢中で気付かなかった。試合が終わり、ロッカーへ引き揚げるとき、スタンドを見上げると父の姿が見えた。チケットも渡していなかったが、連絡もなくこっそり見にきていたのだ。

 ◇西野 朗(にしの・あきら)1955年(昭30)4月7日生まれ、埼玉県出身の64歳。浦和西―早大―日立でMFとして活躍。大学1年生から日本代表に選出。引退後はアトランタ五輪代表監督、柏、G大阪などの監督を経てW杯ロシア大会で日本代表監督を務めた。現タイ代表兼U―23代表監督。

(この原稿は、2019年8月7日に、スポーツニッポン新聞紙上に掲載されたものをそのまま使用しています。肩書や記録、名前、地名などは、すべて掲載当時のものです)

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