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【我が道 西野朗(9)】日立でサッカー人生初の挫折

[ 2026年4月21日 00:09 ]

日立入社直後の十和田湖キャンプで。中央が私
Photo By スポニチ

 【我が道・西野朗】 早大を卒業すると、日立製作所に入社した。1978年(昭53)4月だった。高校卒業時に誘われた三菱重工にも「今度こそ来てほしい」と、熱心に誘われたが、当時の三菱は堅い守りで0―0や1―0の手堅い試合が多く、あまり魅力を感じていなかった。日立は「走る日立」と言われて運動量をベースにしたサッカーだったが、攻撃的で技術のある選手も多く、面白そうなサッカーをしていた。しかも日立の胡(えびす)崇人さんが早大の監督を、高橋英辰(ひでとき)さんが早大非常勤講師を務めていてつながりがあった。選手も松永章さんや碓井博行さん、小柴健司さんら早大から毎年のように日立に入社し流れができていた。もう一つ大きかったのは、高林敏夫さんが日立にいたことだ。中大時代からテクニシャンとして知られたFWで私より2歳上、とても気が合い、日本代表でいつも一緒に行動していた。

 入社して5年間は勤労部、その後は人事教育部に勤務、武蔵小金井の寮から東京駅前の新丸ビルに通い、午前中は仕事。勤労部では採用担当で、短大に求人票を持って回った。同期で入社したのが中大の久米一正だった。静岡の浜名高時代から知られた選手で、高校3年の国体で対戦したこともあった。大学時代は中盤でマッチアップし、75年のアジアユースには一緒に代表に選ばれた。久米は地元の本田技研に行くとされていたので、日立に来たのには驚いた。社宅が隣同士だった時期もあり、私が練習に行こうと家を出ると久米も出てきた。いい意味でライバルだったが、それ以上にいい仲間だった。

 4月2日に日本リーグが開幕し、日立は徳島県鳴門市でマツダと対戦した。同期の久米と瀬津がスタメンで出場したが、私はたしか会社の行事に出席するため、遠征にも行かなかった。日立での選手生活は順風満帆ではなかった。中学、高校、大学といつも1年生から試合に出ていたが、日立では先発から外れることもあった。「泥くささがない、戦わない、格好つけている」と言われていた。守備をしなければならないことも理解していた。2年目に野村六彦さんが監督になると、野村さんの現役時代のプレースタイルを求められた。私にはできなかった。こまめに動くより、ダイナミックにプレーしたかった。それでも監督が求めるサッカーをやろうとしたが、逆に自分の特長が出せなくなり、自分を見失ってしまった。監督やチームのせいではなく、スタイルに順応できなかっただけだ。日本代表でもDF清雲栄純さんや大仁邦彌さんに「戻れ!守備をしろ!」と怒鳴られた。サッカー人生で初めての挫折だった。

 日本代表も79年3月の日韓定期戦(国立競技場)が最後だった。監督が下村幸男さんに代わって最初の試合だったが、その後は呼ばれることはなかった。24歳になる直前だったが、「このまま消えていくのか」と落ち込んでしまった。26歳の頃、日産自動車(現横浜F・マリノス)の加茂周監督や、読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)の関係者から誘われた。読売SCは私のスタイルに合っていたと思ったが、日立から出ることはなかった。

 ◇西野 朗(にしの・あきら)1955年(昭30)4月7日生まれ、埼玉県出身の64歳。浦和西―早大―日立でMFとして活躍。大学1年生から日本代表に選出。引退後はアトランタ五輪代表監督、柏、G大阪などの監督を経てW杯ロシア大会で日本代表監督を務めた。現タイ代表兼U―23代表監督。

(この原稿は、2019年8月9日に、スポーツニッポン新聞紙上に掲載されたものをそのまま使用しています。肩書や記録、名前、地名などは、すべて掲載当時のものです)

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