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【井原正巳 我が道11】日産入社半年間は二刀流 3年連続3冠逃すもカズさんを抑えて新人王

[ 2025年7月11日 07:00 ]

日産は92年のアジアカップウイナーズカップでも優勝した
Photo By 提供写真

 日産は練習でも強度が高く、気が抜けなかった。ほとんどの選手が日本代表や日本代表経験者で、みんなプライドがあり、「俺が試合に出るんだ」と意地と意地をぶつけ合った。そういう中で毎日練習していると、自然と技術も磨かれるし、判断も早くなる。ドリブルのうまいMF金田喜稔さんらと毎日マッチアップするのだから、守備も鍛えられた。

 当時の日本リーグは9月開幕で、8月のJSLカップまで公式戦に出場することができなかった。4~5月はリーグ戦があったが登録できないので、試合会場では荷物運びの手伝い。チームは1989~90年シーズンも前年に続いて日本リーグ、天皇杯、JSLカップの3冠を獲得、日産の黄金時代が続いていた。

 私の日産でのデビュー戦は7月だった。前年のリーグ優勝でアジアクラブ選手権の出場権を得ていて、この大会は選手登録ができたので、国内の公式戦より早く試合に出場することができた。平壌で集中開催された1次リーグで、北朝鮮軍隊のチーム4・25と中国の遼寧省と対戦した。2連敗で敗退したが、物凄く緊張したことを覚えている。この大会のおかげでより早く日産に溶け込むことができた。

 実は9月までの半年間は、大学生と社会人の“二刀流”だった。教職課程を取っていたが、4年生の時はW杯イタリア大会のアジア予選と重なり、教育実習に行けなかった。そこで3月に卒業せず、5月の日本リーグ終了後のオフ期間を使ってつくば市の竹園東中学校で教育実習を行い、9月に卒業した。ケガなどでサッカーができなくなっても、会社には残れないので、教員採用試験を受けて体育の教員として第二の人生をスタートさせることも考えてのことだった。

 オスカー監督からは堅実性などを学んだ。目の前の相手をマークする、ボールを奪う、走るなど基本に忠実で徹底していた。戦術より「個の質を上げて守備重視で」という考えで、運動量があって走れる私を、DFではなく守備的中盤で起用したのもその流れ。その分、木村和司さんのポジションがなくなり「カズシさんが出られないのに、私が出ていいのか」という葛藤もあった。天皇杯は決勝で松下電器に敗れた。リーグ戦も2位で、タイトルはJSLカップだけ。2年連続3冠の後だけに物足りなさもあったが、私はリーグ戦全試合にフル出場。この年、ブラジルの強豪・サントスから読売クラブ(現東京ヴェルディ)に加入したカズさん(三浦知良)と日本リーグの新人王を争ったが、私が選ばれた。一生に一度のことなので物凄くうれしかった。

 93年にJリーグが開幕することが決まり、日産も横浜マリノスとして参加することになった。監督がオスカーから清水秀彦さんになったが、帰国するオスカーに「ブラジルに来ないか」と誘われた。評価してくれたのはうれしかったが、具体的な話はなく、しかも既にJリーグ開幕が決まっていたので、どう考えても「行きます」とは言えなかった。

 ◇井原 正巳(いはら・まさみ)1967年(昭42)9月18日生まれ、滋賀県出身の57歳。守山高から筑波大を経て横浜Mの前身の日産入り。磐田と浦和でもプレー。アジアの壁と言われ、大学2年生の時に日本代表入り、ドーハの悲劇とジョホールバルの歓喜を経験、98年W杯フランス大会に主将として出場。代表通算122試合。引退後は北京五輪代表コーチ、柏コーチ、福岡監督、柏監督を務めた。現在は解説者、6月にU―20Jリーグ選抜監督も務めた。7月から韓国2部・水原コーチ。

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