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東日本大震災から10年 仙台・手倉森監督「もう一回、希望の光になる」

[ 2021年3月11日 05:30 ]

<鳥栖・仙台>黙とうする手倉森監督(中央)(撮影・木村 揚輔)
Photo By スポニチ

 東日本大震災から10年の節目に再び、J1仙台の指揮を託された手倉森誠監督(53)が10日、スポニチ本紙に手記を寄せた。3・11で変わった指導者としての価値観を明かし、11年は4位、12年には2位と躍進したが、復帰した今季は「もう一回、希望の光になる」と誓った。

 11年の東日本大震災から10年、あっという間だった気がします。節目のシーズンにベガルタに復帰したことに運命を感じましたし、いまだ復興が半ばという状況の中、もう一回“希望の光”にならないといけません。10年間で新しい建物ができ、さまざまなものが整備されましたが、心の復興はまだまだです。ましてやコロナ禍で被災地は二重に苦しんでいます。だからこそ仙台市民、宮城県民の皆さんに勇気や希望を届ける、生きがいになれる力がスポーツにはあると信じ、今季は戦い抜かなければなりません。

 11年3月11日のことは鮮明に覚えています。J1の第2節のホーム名古屋戦の前日で、相手の分析のためにクラブハウスでGKコーチの佐藤洋平(現鹿島)と映像をチェックしていました。その時に地震があり、「収まるだろう」と思っていたらどんどん揺れが強くなる。自分はテレビを押さえ、佐藤は重いキャビネットを押さえ、「これが崩れたら彼の足が折れるな」なんて考えていた。そのうちに天井が崩れ、壁が割れ、室内から空が見えた。自分が一番後に外に出た際には「よく出てきたな」と声を掛けられました。本当に恐ろしかったですね。

 正直、サッカーなんてやっていられないと思いました。今季はベガルタだけがJリーグに参加できないんじゃないか、とも。それでも翌日にはクラブハウスの掃除を始めましたね。選手たちにリスタートを呼び掛ける際に瓦礫(がれき)だらけじゃ気持ちよく仕事はできない。少しでも早く皆を呼び戻せる態勢をつくろうという気持ちでした。

 本拠地の仙台では本格的な練習をできないのが目に見えていましたが、すぐに練習場を求めて県外に行くようなことはしませんでした。現況をしっかりと心に刻み込んでから活動をしなければいけないと考え、チームでまずは被災地に出向きました。やれる場所でなんとかトレーニングしながら、午後はグループ分けして被災地に行き、瓦礫の撤去や泥かきをする。復興活動に従事してから「キャンプに行かせてもらいます」と。その後、浦和や千葉といったクラブの支援協力もあって、なんとかキャンプにこぎ着けました。

 あの年、苦境に立たされて自分の監督としての器を試されているんだと思いました。絶望的な状況で選手やコーチ、部下たちをどうやって奮い立たせることができるのか。言葉選びや態度を意識して育めるようになったのは3月11日からです。

 08年に監督を引き受けたときから「ベガルタは東北のシンボルにならなければいけない」という話を常々してきましたが、まだなれていません。被災地の方々に「一番上を目指すのが当然だ」と思ってもらえなければ、シンボルたり得ないんです。10年からJ1で戦い続け、2年目に東日本大震災が起きました。その年に4位、12年に2位と躍進できましたが、その後はかろうじてJ1に残留しているという状況です。10年という節目に、どれだけのパフォーマンスを披露できるのか。新生ベガルタが日本に旋風を巻き起こして“希望の光”になる。被災地のためにもギアを上げていきたいです。(ベガルタ仙台監督)

 ◆手倉森 誠(てぐらもり・まこと)1967年(昭42)11月14日生まれ、青森県五戸町出身の53歳。現役時代は住友金属(現鹿島)やNEC山形(現山形)でプレー。95年に引退し、山形や大分のコーチを歴任した。04年から仙台のコーチ、07年からヘッドコーチを務め、08年に監督に就任。11年に4位、12年にクラブ史上最高の2位と躍進させた。16年にはリオデジャネイロ五輪代表監督、18年W杯ロシア大会の日本代表コーチを務め、今季から8季ぶりに仙台に復帰。1メートル72、74キロ。

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