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松田さん死去 意識戻らぬまま、家族にみとられ…

[ 2011年8月5日 06:00 ]

昨年12月横浜での最終戦、笑顔でサポーターに別れを告げる松田さん

 サッカーの元日本代表DFで02年W杯日韓大会で活躍し、今季横浜からJFL松本山雅に移籍した松田直樹(まつだ・なおき)さんが4日午後1時6分、長野県松本市の信州大病院で死去した。34歳。群馬県出身。2日午前10時前に松本市内で行われた松本山雅の練習中に急性心筋梗塞で倒れ、心肺停止状態に陥っていた。その後、人工心肺装置で血流を維持したが、意識は戻らなかった。通夜、葬儀・告別式の日程は決まっていない。

【追悼 松田直樹選手】

 日本中のサッカーファンの祈りは届かなかった。午後1時6分、日本代表のゴールを守り、Mr・マリノスとして横浜を引っ張った松田さんが、母・正恵さん、兄・浩太郎さんら家族にみとられて静かに息を引き取った。

 「今回このようなことになりましたが、松田直樹はよく頑張ったと思います。皆さまからの温かいメッセージ、応援をいただき、直樹も家族も勇気づけられました。直樹は大切な仲間と大好きなサッカーをすることができました。本当に松田直樹は幸せでした」。松本山雅の大月弘士社長は悲しみをこらえながら、松田さんの家族の手紙を読み上げた。

 2日午前の練習中に突然倒れ、意識不明に陥った。人工呼吸と心臓マッサージを行い、救急車の中では電気ショックを施し、薬剤を投与した。だが、病院に到着した時には、すでに心肺停止の状態だった。心臓の左冠動脈の回旋枝が詰まっていたため、カテーテルでの除去を試みたが、再開通はできなかった。その状態で人工心肺を装着したところ、2日午後2時ごろ微弱ながら心臓の鼓動が戻った。大月社長は「お兄さんは、ファンの方にもらったお守りを胸に置いたら脈が安定したとも言っておられました」と話した。

 しかし安定していた血圧が3日夜から下がり始めた。松本山雅のチームドクター百瀬能成氏は「3日の昼に脳幹反応検査をしたら全く反応がなかった。心拍が正常に戻っても、100%植物状態だった」と当初から非常に厳しい状態だったことを明かした。

 遺体安置所に横たわる松田さんは、松本山雅の緑のユニホームを着て、スパイクを履き、優しい笑みを浮かべていたという。横浜のMF中村は「今にもサッカーしそうな感じだった」と涙ぐんだ。日本代表、横浜の守備の要として戦った松田さんは、サッカー選手として天国へ旅立った。

 ◆松田 直樹(まつだ・なおき)1977年(昭52)3月14日生まれ、群馬県桐生市出身。天沼小1年でサッカーを始め、前橋育英高から95年に横浜入り。1年目から主力として活躍し95、03、04年のJリーグ制覇に貢献した。J1通算385試合、17得点。00、02年にJリーグのベストイレブン。今季からJFL松本山雅に移籍。U―16から各世代の日本代表に選出され、96年アトランタ五輪、00年シドニー五輪、02年W杯日韓大会などに出場。国際Aマッチ通算40試合1得点。右利き。1メートル83、78キロ。血液型A。

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