矢沢永吉の直感、衝動…米国での手応えが突き進む新たな力に 欲しい音求め「1曲8時間」

[ 2022年7月26日 11:30 ]

矢沢の金言(7)

全米デビュー盤「YAZAWA」のレコーディングでボビー・ラカインド(左)らと握手し笑顔を見せる矢沢永吉
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 矢沢永吉はいまも海外のレコーディングには一人で行く。カバンに小切手を入れ、ロサンゼルスもニューヨークもロンドンも。もちろん通訳はいない。

 他の歌手ならマネジャーにレコード会社の現地スタッフ、コーディネーターと“お付き”が3人以上いるのは当たり前。海外録音がはやった1990~2000年代には、日本の人気アーティストが10人近く引き連れる光景も珍しくなかった。

 米国進出した81年。最初に住んだのはロスのダウンタウン、オークウッド。400ドルの安アパートを借りて自炊してコインランドリーで洗濯してと“武者修行”の形から入ったあたりは、自己暗示で反骨精神をけしかけていく矢沢ならでは。

 全米デビュー作「YAZAWA」をレコーディングしたスタジオはハリウッドの「サンセット・サウンド」。レッド・ツェッペリンやローリング・ストーンズなども使った名門。初めて会った本場の凄腕ミュージシャンたちに度肝を抜かれながら、全編英語のアルバムを録音するのに「1曲8時間かかった」という。その苦労はもちろんだが、ほとんど英語がしゃべれないのに物おじせずに「自分の欲しい音」を身ぶり手ぶりで伝え、最後まで粘りに粘って作り上げる、その不屈の情熱と胆力には圧倒される。

 今から20年前、矢沢最大のヒット曲「時間よ止まれ」のアレンジを手掛けた坂本龍一(70)にインタビューした時。余談で矢沢の話になり、当時のレコーディングの思い出を「自分の勘で浮かんだものをあの独特の言葉で求めてくるから、正直どうしてほしいのか分からなくて。何度もあーだこーだと大変でした。でも自分の勘だけであの一曲作っちゃうんだから、まあ凄いですよ」と語っていた。

 自分がこうしたい!と思う直感をこれほど大切にし、しかもその欲求にこれほど素直に突き進める人もいない。それは初期衝動全開の20代の頃から信念としてあった「てめぇの人生なんだから。てめぇで走れ」に、異国で経験した多くの“出会い”が自分を成長させてくれるという、肌で体感した手応えが矢沢の人生の新たな推進力となったように思う。

 本場の洋楽の洗礼を全身に浴び、リーゼントで固めた髪を下ろした矢沢。キャロルからソロデビューした時と同様、ファンに驚きと戸惑いを与えながらも、80年代の米西海岸の最先端のサウンドを取り入れながら新たな扉を叩き続ける。その後、矢沢は直接交渉してきた海外のミュージシャンを日本に興行で連れて来る時の「招聘(しょうへい)ライセンス」を自力で取得する。世界の仲間との出会いが“てめぇの人生”をひとりで突破する新たな力を与えてくれたのである。(阿部 公輔)

 《「男の勲章」「なめ猫」…82年に“ツッパリ”再燃》82年の日本の年間チャートNo・1は、あみん「待つわ」で2位が薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」。嶋大輔「男の勲章」もヒットし、暴走族風の身なりをした猫のキャラクター「なめ猫」のブームが続くなど、矢沢が10年前につくり上げた音楽による“ツッパリ”のカルチャーが再燃。その中、海外の凄腕ミュージシャンを引き連れて凱旋した矢沢は日本の音楽シーンとの違いを見せつけた。

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