コロナ禍で1年遅れの開催。“生誕91年”の熊井啓監督をしのぶ

[ 2021年9月29日 19:00 ]

熊井啓監督がスポニチ本紙に連載したコラム「シナリオのない深い話」(1996年2月17日付)
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 【佐藤雅昭の芸能楽書き帳】新型コロナウイルス感染症の影響は各方面に及んでいる。本来ならば昨年行われるはずだったイベントが中止になったり、仕切り直しを余儀なくされたりと、関係者の苦労も尽きない。

 こちらの特集上映も1年遅れの実施だ。東京・池袋の新文芸坐で10月12日から19日まで開催される「熊井啓映画祭2021」がそれで、「生誕90周年企画」と銘打たれている。熊井監督が生まれたのは1930年6月1日だから、生誕90年を迎えたのは昨年。これがコロナのために順延となり、今年の催しとなった。

 「海と毒薬」(86年)、「千利休 本覺坊遺文」(89年)、「忍ぶ川」(72年)、「サンダカン八番娼館 望郷」(74年)、「朝やけの詩(うた)」(73年)、「式部物語」(90年)、「帝銀事件 死刑囚」(64年)、「地の群れ」(70年)、「お吟さま」(78年)、「黒部の太陽」(68年)などがラインアップされた。

 実際に起こった事件を綿密な調査と考証で掘り下げた作品を次々に発表。世の中の矛盾に鋭い視線を投げ掛ける社会派の巨匠として、日本映画史に確固たる地歩を築くとともに、ベルリンやベネチア映画祭など海外からも熱い視線を集めた。

 今回の特集からは外れたが、「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」(81年)や「ひかりごけ」(92年)、「日本の黒い夏―冤罪」(01年)も印象深い作品たちだ。

 1996年春、熊井監督にコラム執筆を依頼するため、調布市の自宅に足を運んだのは懐かしい思い出だ。快諾していただいた時のうれしさは格別だった。「熊井啓 シナリオのない深い話」のタイトルで3カ月間、毎週土曜日の芸能面を飾った。

 改めて読み直してみる。「千利休 本覺坊遺文」で仕事をした三船敏郎さんの話が出てきた。96年2月17日の掲載分だ。

 少し再録してみる。

 「優れた俳優はシナリオに書いてあるセリフを熟読して覚え、自分のものにして表現する。(中略)句読点まで正確に表現する俳優の一人に、三船敏郎さんがいる。完璧(ぺき)に覚えているから、撮影現場にシナリオなど絶対に持ってこない。(改行)その三船さんが一度だけ現場にシナリオを持って来たことがあった。」

 ついつい続きが読みたくなる運び方。ファクスでのやり取りだったが、読みやすい丁寧な文字と分かりやすい文章にいろいろと学ばせてもらったものだ。

 北海道古平町の豊浜トンネルで96年2月10日に起こった崩落事故を題材に筆を取った回もあった。20人の死者を出した惨事。 「(前略)ここから積丹半島の神威岬にかけて、昭和五十一年(76年)十二月に『北の岬』を、五十六年(81年)三月に『謀殺・下山事件』のロケをした。」

 と切り出し、新道こそ出来てはいなかったが、当時から周辺は岩盤のもろさなどもあって崩落の危険が常にあったと書いている。故郷の長野県で発生した松本サリン事件を題材にした回もあり、その視点の鋭さに毎週引き込まれたものだ。

 こよなく酒とプロ野球の巨人軍を愛した人でもあった。くも膜下出血のため76歳で亡くなったのは2007年5月23日。新作の構想を練っていた中での悲劇。存命であれば、どんなことに興味を抱いていただろうか。

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