津波で妹を失った生島ヒロシが語る 後悔しないように生きることこそ「残された者の務め」

[ 2021年3月2日 05:30 ]

東日本大震災から10年――忘れない そして未来へ(2)

震災直後に宮城県気仙沼市に入り、妹・喜代美さんの自宅があった場所で手を合わせる生島ヒロシ
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 東日本大震災から10年。被災地ゆかりの人たちが「あの日」の生々しい記憶とその後の10年を振り返りながら、被災地にエールを送るインタビュー企画「忘れない そして未来へ」。第2回は津波で妹の喜代美さん(当時57)を亡くすなどしたフリーアナウンサーの生島ヒロシ(70)です。

 3・11は仙台市で講演をしていた。翌日、都内で仕事の予定があったため、タクシー5台を乗り継ぎ約15時間かけて帰京。車中のテレビで見た、故郷・宮城県気仙沼市の様子を伝える映像が今も忘れられない。「街が真っ黒な海に覆われ、その海から真っ赤な炎と煙が上がっていた。海が燃えるというのが信じられなくて、いったい何が起きているのかと。妹の家から比較的、近い場所だったので嫌な予感がしました」。祈るような思いで「大丈夫」と自分に言い聞かせたが、その後、喜代美さんと連絡が取れることはなかった。

 震災の3日後、ラジオ番組の生放送があった。「つらかったけど、休むわけにはいかなかった。放送途中にリスナーから“生島さんの声に元気をもらっている。踏ん張って”と激励のメールが山ほど届いて。あんなに泣いたのは初めてかも。悲しい思いをしている自分だからこそ、伝えられることがあると気持ちを切り替えました」。声を掛けてくれた和田アキ子(70)とともに、震災で両親を亡くした子供を支援する基金を設立。募金のため自ら街頭に立った。これまでに12人の遺児が高校を卒業し、あと一人に今も支援を続けている。

 喜代美さんの遺体は震災半年後の9月、消息が分からないまま執り行うことになった葬儀当日に発見された。「妹の気配りだったのかな。とにかくホッとしました」。義理の弟にあたる、喜代美さんの夫は今も見つかっていない。

 あれから10年。「震災以降は“今日が最後になっても悔いが残らないように”という思いを胸に無我夢中で生きてきました。それが残された者の務めだから」。気仙沼の街も奇麗に生まれ変わった。「震災直後に行った時は魚の腐った臭いが漂い、街はがれきの山。もう復活できないと思った。早く新型コロナウイルスが収束して、以前の活気やにぎわいが戻ってきてほしい」

 ただ日本は3・11以降も各地で地震が発生し、やむことがない。「東北で起きたことは人ごとではない。日本は“覚悟の時”に入っている。いざという時の知識、どんなことがあっても生き抜いていくという強い気持ちを持って日々暮らしていかなければいけない」。震災でかけがえのない家族を失った者としての思いが言葉にこもった。(小枝 功一)
 
 ◆生島 ヒロシ(いくしま・ひろし)1950年(昭25)12月24日生まれ、宮城県出身の70歳。米カリフォルニア州立大ロングビーチ校ジャーナリズム科卒業後、76年にTBS入社。89年に退社し、生島企画室を設立。TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食・一直線」(月~金曜前5・00)は、98年から続く長寿番組。

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