西城さん「ヤングマン」秘話 超臨時発売に過重労働、レコード工場で慰労の熱唱

[ 2018年5月18日 06:30 ]

西城秀樹さん死去

西城秀樹さんの「YOUNG MAN」(Y.M.C.A)ジャケット写真
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 1970年代に西城さんのマネジャーを務めた天下井(あまがい)隆二氏(66)が、故人の代表曲「ヤングマン」の制作秘話を明かした。

 1978年12月の年末。東京都港区のリハーサルスタジオ。天下井氏はチーフマネジャーから「おい、天下井、アンコールの外国曲に日本語詞をつけといて」と指示された。

 当時はステージで外国曲のカバーが当然のように披露されていた。ディスコではやり始めていたビレッジ・ピープルの「YMCA」という作品。同曲のテープの入ったカセットデッキをスタジオの屋上に持って行って1時間ほどで「ヤングマン」の日本語詞を書き上げた。「そういうことは、昔はよくあったんです。直訳のような詞でした」と振り返る。

 年明けの1月4日から3日間、大阪・厚生年金会館でのコンサートで同曲を初めて披露。ずっと働きづめだったので、その公演の後、みんなで休みを取り、グアム旅行に行った。現地のディスコで「ヤングマン」を流すと、地元の人たちは大喜びで踊ったという。

 帰国するとリクエストが殺到していて、急きょ2月21日発売の新曲としてレコーディングすることになった。超臨時発売ということで、神奈川県大和市にあるレコードの工場はパニックになった。過重労働をさせて申し訳ないと、必死に働いている工場の人たちへお礼に訪れた。ミカン箱の上で西城さんが歌うと、女性たちは一緒に踊ってくれたという。

 社会現象になった大ヒット曲は80万枚を突破した。訳詞作品だったが、印税は初年度500万円ぐらい入ったという。「その半分は、(日本語詞を)書けと言ったチーフマネジャーに渡した。しかし、事務所からたまっていた飲み代を請求されて、一銭もなくなってしまった」

 その後、別れて仕事をするようになったが、マネジャーとして20年近く苦楽を共にした西城さんについて「竹を割ったような性格。シンプルで素直で明るくて、誰に対しても気さくで気取らない。くさい言い方だけど、青春を一緒に駆け抜けた同志みたい」と無念さをかみしめていた。

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