日本歌謡史に偉大な功績残し…星野哲郎さん逝く

[ 2010年11月16日 06:00 ]

07年、記念館開館の祝福に駆け付けた北島三郎(右)らと記念撮影に納まる星野哲郎さん(中央)

 「函館の女」「三百六十五歩のマーチ」などで知られる作詞家の星野哲郎(ほしの・てつろう、本名有近哲郎=ありちか・てつろう)さんが15日午前11時47分、心不全のため都内の病院で亡くなった。85歳。山口県出身。作曲家船村徹氏(78)とコンビで「みだれ髪」「兄弟船」などをヒットさせた演歌作家の第一人者。約4800曲を発表し、北島三郎(74)都はるみ(62)水前寺清子(65)らをスター歌手にした。

 星野さんは今年5月に肺炎で1カ月ほど入院。先月5日、のどに詰まった食べ物が肺に逆流し再入院していた。関係者によると、15日早朝に容体が急変し、シンガー・ソングライターで長男の有近真澄(52)の妻と長女夫妻の3人に見守られながら、眠るように息を引き取った。遺体は午後3時ごろ、東京都小金井市の自宅に戻った。
 08年10月に、小金井市の名誉市民証の授与式に出席したのが最後の公の場。今年正月に発売した島津亜矢(39)の「温故知新」が最後の作品となった。1月14日に星野さんの自宅で新年会を開いた際には、鳥羽一郎(58)や水前寺が歌う姿を笑顔で見ていたが、最近は足腰が衰え、5月ごろから車椅子生活を送っていた。
 作詞家としての原点は、故郷の周防大島(山口県)での長い闘病生活。高等商船学校(現東京海洋大学)卒業後、水産会社に入社し漁船に乗る仕事についたが、結核性の腎臓病のため船乗りを断念。故郷で4年に及ぶ療養生活を送る中、52年、病床から雑誌の作詞コンクールに投稿した「チャイナの波止場」が入選。選者の作詞家、故石本美由起さんの勧めで翌53年に作詞家デビューした。
 星野さんは生まれてすぐ両親が離婚するなど複雑な家庭環境で育った。学生時代に肺結核、79年にも心筋梗塞(こうそく)による闘病を余儀なくされており、こうした経験が人生の喜びや悲しみをこまやかに描写した「援歌」「縁歌」と呼ばれる歌の世界につながった。船乗りとしての経験を生かして数多の海や船を題材にした作品を生み出し、歌手の人生を聴き手に想像させる歌作りも巧みだった。
 多くのスター歌手を生んだことでも知られ、渋谷の飲み屋街で流しの歌手をしていた北島のデビュー曲「ブンガチャ節」を手掛け、新人だったはるみの「アンコ椿は恋の花」を大ヒットさせた。水前寺を見いだしスター街道を歩ませたのも星野さんだった。
 生涯で書き上げた曲は6000以上。約2000の未発表曲が残っているという。

 ≪支えた妻を愛し続け…≫星野さんは愛妻家としても知られた。著書には94年に亡くなった妻朱實(あけみ)さんへの感謝をつづった「妻への詫び状」があり、舞台化もされている。朱實さんは星野さんのすべての詞の清書を務め、売れっ子になる前の貧しい時代から40年以上にわたって創作活動を支えた。星野さんは、朱實さんが亡くなった後も、削ってくれた50本以上の鉛筆を机に差して使わず保存、愛し続けた。

 ◆星野 哲郎(ほしの・てつろう)本名有近哲郎(ありちか・てつろう)。1925年(大14)9月30日、山口県大島郡生まれ。多数の演歌のほか、映画「男はつらいよ」シリーズの主題歌も手掛けた。91年、北島の「北の大地」で日本レコード大賞を受賞。86年に紫綬褒章、00年には勲三等瑞宝章を受章。日本音楽著作権協会会長も務めた。

 ◆星野哲郎さん葬儀日程
 【通夜】18日午後6時
 【葬儀・告別式】19日正午
 【場所】青山葬儀所=(電)03(3401)3653。
 【葬儀委員長】船村徹氏
 【喪主】長男有近真澄(ありちか・ますみ)さん

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2010年11月16日のニュース