【馬淵史郎 我が道10】初出場 都市対抗8強、日本選手権準優勝も「俺は辞める」

[ 2026年3月10日 07:00 ]

86年社会人日本選手権で準優勝の表彰を受ける
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 27歳で社会人野球の阿部企業の監督に就任した。環境には恵まれないし、仕事はハード、おまけに選手は故障持ち。ないない尽くしのチームだったが、「何とかひと勝負したい」という雑草魂はみんなが持っていた。なにくそ、の思いがチームの原動力になった。

 バットを振り込ませていくと、徹夜仕事で鍛えられた体力から鋭い打球が出るようになった。試合にも少しずつ勝てるようになってきた。実績がなくても、その気になったら、やる気になったら何とかなる。恩師の田内さんの言葉も思い出しながらチームを引っ張った。

 社長に「一度、都市対抗に出ましょう」と補強を直訴し、台湾を視察したときに出会ったのが右下手投げの陽介仁と外野手の林易増だった。世界の野球事情に詳しい山本英一郎さん(のちに野球殿堂入り)にも契約の際に協力いただき、1986年(昭61)に2人が加わった。課題だった投手陣に柱ができたことで、悲願の都市対抗出場を果たした。劣悪な環境からよく選手たちもやってくれた。

 都市対抗では初勝利に向けて、情報戦もやったよ。初戦の相手は優勝候補の三菱自動車川崎。三菱グループからの補強選手に「先発を聞かれたら陽だと言っとけ」と煙幕を張って、左打者を並べてきた相手に、補強選手の左腕・岡本透(元大洋)を先発させ、7回1死まで無失点に抑えて番狂わせの勝利。準々決勝では日本石油に3―10で負けたが、初出場でベスト8入りを果たした。2回戦では主戦の陽が走者のときに、相手野手に当たられて、ベンチを飛び出し乱闘騒ぎ。厳重注意も食らった。これぞ神戸の暴れん坊軍団やったな。

 その中でカチンときたことがあった。初戦で岡本が好投しているときに、ベンチ裏に社長が来た。「陽を投げさせろ」と言う。選手起用は監督の専権事項。いくら自分が金を出したからといって、用兵まで口を出されてはたまらない。勝ったら勝ったで「応援にも金がかかる」なんて声が聞こえてきた。介入されてまで、監督は続けられない。「このシーズンで俺は辞める」と選手の前で宣言した。

 最後の大会が86年に大阪球場で行われた日本選手権。腹はくくっていたし、選手には「好きなようにやれ」とだけ言って送り出した。徹夜のガードマン仕事に比べたら、全国大会は天国。選手たちも「やったるわ」と暴れてくれた。

 2回戦からの出場で、三菱自動車水島に9―3で勝つと、準々決勝は三菱自動車京都に6―1、準決勝は川崎製鉄神戸に4―1。初出場であれよあれよと決勝進出。「あんなチームに」と言われ続けた男たちが意地を見せた。

 決勝ではNTT東海に1―5で負けたが、準優勝は立派のひとこと。社長とも衝突してしまったが、何も実績のない監督と選手たちにチャンスを与えてくれたことには感謝している。

 ◇馬淵 史郎(まぶち・しろう)1955年(昭30)11月28日生まれ、愛媛県八幡浜市出身の70歳。三瓶高―拓大。83年に社会人の阿部企業で監督に就任、86年に都市対抗初出場、日本選手権で準優勝。90年から明徳義塾の監督に就任、02年夏の甲子園で優勝。監督として甲子園通算39回出場(春17回、夏22回)は歴代1位。甲子園55勝は歴代4位。23年には日本代表監督としてU―18W杯優勝を果たした。

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