18年の時を超え…日本ハム・新庄監督に届いた“ありがとう”

[ 2022年1月31日 07:45 ]

新庄の打球が小学生を直撃したことを報じる04年2月3日のスポニチ東京版1面
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 早朝に届いた一通のメールに心が救われた。「おはようございます。記事、拝見いたしました。ありがとうございます。感動です」。送り主は先日、電話取材した沖縄県名護市在住の亀里涼太さん(28)だった。「記者冥利(みょうり)に尽きる」とは、このことである。

 18年前の2004年2月3日、ある“珍事”を本紙が一面で報じた。日本ハム・新庄剛志監督(50)がメジャーから日本球界に復帰した04年、沖縄・名護春季キャンプのフリー打撃で放った柵越えのボールが地元小学生の股間を襲った。おわびに本人からサインをもらったのが、亀里さんだった。

 デスクの提案を受け、本人にコンタクトを取ってみた。気がかりだったのは亀里さんの心情だ。記事を読み返せば、一緒に見学していた野球仲間から「チン太」と命名されていた。あまりにも衝撃的なニックネームに、傷ついていないだろうか。恐る恐る電話をかけたが、心配は杞憂(きゆう)に終わった。

 「地元ではちょっとしたヒーロー扱いを受けて、うれしかったです」。亀里さんは笑いながら振り返ってくれたが、その話しには続きがあったのだ。実はその1週間後に念のため病院で検査を受けたところ「大腿骨頭すべり症」という、股関節の骨がずれて歩行が困難になる別の病気が発覚していた。

 不幸中の幸いは早期発見であったこと。病院の先生には「あと少し来るのが遅かったら、一生車いす生活だったよ」と言われたという。右股関節を手術して2年後に回復も、右側をかばって歩いたことで左側も発症。同様に手術し、合計4年がかりで完治した。

 当時は車いすに座りながら、遠くで仲間が野球をしている姿を見て「どうして僕が…」と不運を恨んだという。ただ、励みになったのは新庄監督の活躍だった。06年のリーグ優勝、日本シリーズ制覇は病室で観戦。テレビ横に飾ったサインに復帰を誓った。

 辛いリハビリを乗り越え、中学2年でスポーツの許可が下りた。野球部に入部すると仲間や監督が「おまえ、歩けているんだな」と泣いて迎え入れてくれたという。発症前は捕手だったが、股関節に負担がかかるという理由で一塁手としてプレー。持ち前の愛きょうと明るさを武器に、中学3年には副主将も務めた。

 高校卒業後は名護市内の運送会社に入社。今はトラックの運転手として名護市内を走り回っており、球場の前を通る度にあの日の記憶がよみがえる。もしあの時、打球が当たっていなければ…。あれから18年。「いつか、新庄さんに感謝を伝えたいと思っていたんです」と、亀里さんは話していた。

 今月28日、新庄監督は自身のインスタグラムのストーリーズを更新。今月26日に本紙で掲載した亀里さんとの秘話をコメント付きで紹介した。「打った打球がこの子の股間に当ててしまった事は昨日のことのように覚えています!!しかし凄い奇跡だ!!(原文まま)」。18年の時を超え、ビッグボスへの感謝は届いたはずだ。(記者コラム・清藤 駿太)

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