21分の抗議、退場、緊急入院…大島康徳監督とNPB審判員が挑んだ“極限の試合”

[ 2021年7月7日 11:43 ]

2000年6月、日本ハム・大島康徳監督(左)と前日の試合で大島監督に退場処分を言い渡した山崎夏生球審
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 中日、日本ハムでプレーし、日本ハムの監督を務めた大島康徳さんが6月30日に大腸がんのため70歳で死去した。監督時代の大島さんを2度も退場させた経験を持つ元NPB審判員・山崎夏生さん(66)には忘れられない2日間がある。

 監督が血相を変えてベンチを飛び出し、審判員に激しく抗議。映像で判定を検証する「リクエスト制度」の導入以降、そんな光景は少なくなったが、20年前のプロ野球では日常茶飯事だった。

 2000年6月20日に東京ドームで行われた日本ハム―ロッテ戦。7回にロッテ・大塚が左翼ポール際に大飛球を放った。三塁塁審の山崎氏は「ポールに当たってファール側のスタンドに落ちた」と本塁打の判定。大島監督はベンチを飛び出し「ファールだろう!」と猛抗議。抗議時間は21分に及び、山崎氏は「ここがリミットだ」と遅延行為で退場を宣告。試合は12―7で日本ハムが勝利したが、山崎氏と大島監督に苦難が待っていた。

 山崎氏は帰宅後、テレビで当該シーンをスローで確認。打球はポールに当たっておらず、ファウルだった。翌日は球審だったが、誤審のショックから食事はのどを通らず、一睡もできなかった。

 大島監督は試合後、監督室で嘔吐した。激しい抗議が影響したのか「急性胃炎」だった。救急車で都内の病院に運ばれ、緊急入院。翌日の指揮は絶望的だった。

 翌21日。2人は東京ドームに現れた。山崎氏は「この試合でトラブルを起こしたら、クビだと思った。腹をくくった」と覚悟の「プレーボール」。大島監督は「指揮官として1日たりとも空けられないよ」と病院から球場に直行して指揮を執った。

 3時間3分の試合は5―2で日本ハムが勝利。トラブルなく終えた山崎氏は「ほっとして膝から崩れ落ちた。一番強烈に残っている試合」。満身創痍だった大島監督は試合後、タクシーで病院に直行。最悪のコンディションでも、2人は仕事をやり遂げた。

 山崎氏が最後に大島さんに会ったのは昨年の10月18日。陸前高田で行ったプロ野球OBによる「ドリーム・ベースボール」。打席に立った大島氏は球審を務めた山崎氏に「山ちゃんが球審か~。元気そうだな」と笑った。

 誤審、退場の恨みではなく、ベストを尽くした相手へのリスペクト。それが大島さんの笑顔を生んだに違いない。(記者コラム・柳内 遼平)

 ◇山崎 夏生(やまざき・なつお)1955年(昭30)7月2日生まれ、新潟県上越市出身の66歳。北海道大卒業後は日刊スポーツ新聞社への入社を経て、82年にパ・リーグ審判員となる。1軍通算1451試合に出場。17度の退場宣告を行った。引退後はNPBで審判技術委員を務め、18年に退職。現在は「審判応援団長」としてアマチュア野球の審判員を務めるほか、講演・執筆活動を行う。

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2021年7月7日のニュース