ロッテ・朗希「怪物の原点」、小学3年生ですでに投手の素質“デビュー戦”で1イニング3人ピシャリ

[ 2021年5月28日 05:30 ]

交流戦   ロッテ6―4阪神 ( 2021年5月27日    甲子園 )

高田野球スポーツ少年団時代の佐々木朗(中列中央)
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 「怪物の原点」を知る人物がいる。岩手県の陸前高田市役所に勤務する村上知幸さん(51)で、ロッテ・佐々木朗が高田小3年時に入団した高田野球スポーツ少年団の元監督だ。2011年の東日本大震災後、大船渡市に引っ越した朗希少年だが、別々のチームになっても成長する姿も見守ってきた。

 小学3年春に朗希少年が入団したとき、村上さんはコーチだった。「(朗希は)まだ3年生で練習するより、校庭の端で野球で遊んでいたという感じだった」と懐かしむ。

 面影はプロ野球選手になっても残る。「6年生の兄貴と違い、次男らしく同級生と何かでいつも言い争っている感じ。だからといって、ベラベラ話すタイプでもない。(テレビで見る)今の姿と同じですね」。6月に監督就任。その頃から朗希少年も高学年と一緒にキャッチボールをするようになった。

 11月の東北地方は寒い。「バット納め」という行事があった。冬のトレーニングに切り替える節目だ。「そのちょっと前に最後の練習試合をやったんです。そこで、まだ3年生だったけど(朗希に)投手をさせた。試合で投げたのは、これが初めて。鮮明に覚えています」。投手・佐々木朗の誕生だった。

 「最初から投手をやりたいと言っていたし、キャッチボールを見れば、投手もできると思っていた。1イニングだけだったけど、打者3人で抑えた」。上から投げる奇麗なフォーム。こちらも面影は残る。同学年にも上手な子が多かった。「2年後が楽しみ。県大会で優勝も狙える」と思ったが、翌年3月に東日本大震災に襲われた。

 父、祖父母を亡くした朗希少年は大船渡市へ引っ越した。当時は転校した子供たちが何人もいた。村上さんも次男を亡くした。それでも野球が折れそうな心を支えてくれた。「みんな、転校先で野球を続けてくれた。(朗希も)球が速くなって、中心選手になっていた。震災がなければ…と思ったりしたが、楽しくやっている姿を見られるのはうれしかった」と振り返る。

 仕事で大船渡を訪問した際、佐々木朗と再会した。「私も身長1メートル83あるが、(1メートル90の朗希には)はるかに超えられた。日本を代表する投手になってほしいけど、どちらかというとケガをしないようにと心配しながら応援しています」。佐々木朗を見守る気持ちは、今も昔も変わらない。(取材・横市 勇)

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