【内田雅也の追球】もう一つの「伝統の一戦」 TDきょう2000試合 阪神の歴史変えた「大阪球場事件」

[ 2021年5月11日 08:00 ]

1954年7月25日の中日戦(大阪球場)で判定に抗議する阪神・松木監督、藤村富美男主将(中央)=阪神球団発行『タイガース30年史』より=

 阪神は今週、中日、巨人と相次いで通算2000試合の節目を迎える。いずれもプロ野球史上初の大台である。創設時の1936(昭和11)年から現存する老舗3球団の伝統をかみしめる時と言えるだろう。

 雨天中止がなければ、中日とはきょう11日に甲子園で、巨人とは15日に東京ドームで到達する。巨人―中日の到達は7月6日の前橋だ。

 阪神―巨人よりも先に阪神―中日が大台を迎えるのは日程上の先後だろうが、創設初年度の事情からすれば、あるべき順番だと言える。

 今のプロ野球最初の公式戦、36年4月29日からの第1回日本職業野球リーグ戦に巨人は参加していない。第2次北米遠征(2月14日出国~6月5日帰国)に出ていた。巨人の参加は7月1日開幕の東京大会からだ。

 巨人不在の間、タイガースは名古屋(現中日)と2度対戦している。この初年度の差は再試合などで一進一退、昨年終了時で中日戦1993試合、巨人戦1992試合と1試合差になっていた。

 中日戦のなかには阪神の放棄試合(没収試合)となった1954(昭和29)年7月25日も含まれている。この一戦が後の阪神の歴史を変えてしまったとみている。

 舞台の名をとって「大阪球場事件」と呼ばれる。当時、甲子園球場に照明設備はなく、南海(現ソフトバンク)本拠地の大阪球場を借りてナイターを主催していた。

 2―5と勝ち越された延長10回裏、杉下茂に対した代打・真田重蔵のカウント2―2からのファウルチップを捕手・河合保彦が直接捕球したとして球審・杉村正一郎は三振を宣告。するとベンチを飛び出した藤村富美男が杉村の肩を突いた。

 一塁コーチボックスにいた監督・松木謙治郎はワンバウンドと主張、藤村の連続試合出場が途切れると案じ「私が退場になればいい」と覚悟のうえで杉村を腰投げ、足払いをかけた。観客がグラウンド内に入って試合は1時間7分中断した。

 松木は退場となった。打順の回った藤村が打席に向かおうとすると杉村は「君は退場させられている」と告げた。再び観客がなだれ込み、試合再開は不能となった。審判団は没収試合として9―0で中日勝利を宣した。

 後に連盟は藤村に20日間、松木に5日間の出場停止という裁定を下した。藤村の連続出場は1014試合で止まった。

 松木は責任を取る形で同年限りで監督を辞任した。親分肌で、スポニチ本紙は「猛虎を御す男」と伝えていたほど。求心力のある松木の退団でチーム内は揺れた。

 新監督は助監督で本命とされていた藤村ではなく、電鉄本社の独断で無名の岸一郎が就いた。オーナー・野田誠三(本社社長)の指示だった。

 55年、藤村ら選手は「素人監督」に反発し、岸は5月21日、開幕33試合で休養となった。

 当時マネジャーの奥井成一は週刊ベースボール誌上で連載した『わが40年の告白』で問題視したのは<本社の一方的な人事>だった。球団無視の押しつけ体質はこの後幾度も「お家騒動」を呼んだ。結果的に選手は監督更迭に成功し、後の「藤村監督排斥運動」など統率がきかない体質が残った。

 強者同士の激戦をいう「竜虎相搏(そうはく)」には歴史がある。巨人戦同様に中日戦もまた「伝統の一戦」である。

 初対戦は36年4月30日の甲子園で阪神が初回に大量12点をあげ、17―3の圧勝だった。この大阪大会の観衆は7日間で計1万9164人。最高でも5260人だった。

 職業野球とさげすまれた。戦争で多くの選手を失い、用具や食糧不足とも闘った。長い年月、風雪に耐えてきたのだ。偉大な先人たちに思う。

 阪神からみた中日戦で言えば、64年のリーグ優勝決定試合(9月30日、甲子園)や江夏豊のノーヒットノーラン、自らサヨナラ本塁打という快挙(73年8月30日、甲子園)といった歓喜のシーンがあった。

 一方で、勝つか引き分けても優勝だった73年10月20日の中日戦(中日球場=現ナゴヤ球場)で敗れた悔恨もよみがえる。

 中日OBの杉下も監督を務め、星野仙一は2003年に優勝をもたらした。そしていま、矢野燿大が竜虎双方のOBとして猛虎で指揮を執っている。

 汗と涙がしみこんだ、輝ける歴史である。プロ野球最初の2000試合を誇り、祝いたい。=敬称略=(編集委員)

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