【藤川球児物語(40)】「原点の高知でもう一度」 無報酬、異例の契約で野球人生再スタート

[ 2020年12月23日 10:00 ]

15年6月20日、4回1失点と好投した高知・藤川

 苦しかったメジャーリーグ挑戦。15年にレンジャーズを自由契約になったとき、引退の2文字が藤川球児の頭をよぎった。だが、「やりきったと言えるのか」と自問自答しても、YESとは答えられない自分がいた。トミー・ジョン手術から2年、メスを入れても復活できるということも証明したかった。

 「故郷に戻ろう。原点の高知でもう一度、野球をしてみよう」

 5月23日に自由契約となった藤川は、6月1日に独立リーグ、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス入団を決めた。「僕と妻の生まれ故郷の高知で、未来のスーパースターになるチャンスを持った子供たちに、僕が投げる姿を見て今後の夢につなげてもらいたい。高知から野球人生を再スタートすることに決めました」。阪神のオファーもあったが、故郷からの再出発にこだわった。

 兄・順一も高知球団の代表兼GMを務めていた縁もあった。両親、そして兄、恩師、友人、そして子供たち。多くの人が里帰りを喜んだ。米国生活で傷ついた心と体も、故郷の空気を待ち望んでいた。背番号11。藤川は無報酬、登板試合のチケット売り上げの10%を球団が児童養護施設に寄付するという異例の契約だった。

 「新しい人生のスタートとして最高の決断をしたと思う。当たり前の概念にとらわれると新しいことは生まれない。お金じゃない。必要とされるところで投げたい」と入団会見の席で藤川は宣言した。6月20日のオープン戦初登板では先発で4回1失点。9月7日の公式戦では9回131球を投げ、3安打完封。手術の影響もないことを証明した。

 「楽しい時間だった」と当時のことを今も藤川は忘れることはない。NPBを目指す選手と競い、子供たちは球児のサインに目を輝かせた。懐かしい友人たちと過ごす時間も充実していた。

 それでは次にすべきことは何か。さらに進むのか。進むことができるのか。考えていた藤川の背中を押したスーパースターがいた。 =敬称略=

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2020年12月23日のニュース