気がつけば40年(14)電撃的な西武監督解任劇 「球界の寝業師」は夕刊紙を手に迫った

[ 2020年9月4日 08:00 ]

1985年11月9日付スポニチ東京版3面
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】1985年11月8日、巨人の秋季キャンプを取材するため宮崎に着いた直後だった。デスクに連絡の電話を入れると「すぐ帰ってこい」と言う。西武・広岡達朗監督が辞めることになったらしい。

 西武は阪神との日本シリーズを終えたばかり。広岡監督は5年契約をあと1年残していた。阪神には2勝4敗で敗れたが、4年間で3度のリーグ優勝、2度の日本一と申し分ない成績を残している。何が起きたのか。

 この日、東京・東池袋のサンシャインシティビル54階の球団事務所で行われた電撃発表。戸田博之球団社長、根本陸夫管理部長とともに会見の席についた広岡監督は淡々と口を開いた。

 「健康上やり切る自信がないので、わがままを言いましたが、球団から許可が出ました。自分としてはこういう体で悔いのない4年間でした」

 健康上の理由で辞任というわけだ。確かにこの年、広岡監督は持病の痛風が悪化し、リーグ優勝を決めた10月9日の近鉄戦(藤井寺)にいなかった。監督不在の胴上げ。長野県の諏訪長生館で療養していたのである。

 しかし、日本シリーズの采配は振るったわけで、自分から辞めるつもりはなかった。シリーズ終了5日後の7日、発表の前日だ。球団に呼ばれて球団事務所を訪れると、根本部長が夕刊紙を手にして待っていた。

 「おまえが書かせたんだろ。説明してくれ」

 その夕刊紙には、広岡監督が球団に編成権を要求して、認められない場合は辞める、という内容の記事が掲載されていた。

 フロントに不満を持っていたのは事実だ。大砲獲得を要求していて、メジャー通算338本塁打のドン・ベイラーが獲れたのに寸前でストップ。前年、日本ハムから江夏豊を譲り受けた際、交換要員として柴田保光と木村広の2人を出したのも気に入らなかった。だが、自分から書かせた覚えはない。

 「根本さん、いつも“夕刊紙なんか信用するな”と言ってる人がなんですか。私より夕刊紙を信用するんですか」

 そう言っても根本部長は納得しない。そんなに自分を追い出したいのか。そう思うと嫌になって「僕が辞めてあげましょうか?」と言ったら「おお、辞めてくれるか」。これで辞任が決まった。「球界の寝業師」の挑発にまんまと乗った形。事実上の解任である。

 宮崎から呼び戻されたの私のミッションは後任候補として名前が挙がった田淵幸一氏の密着マークだった。前年引退しスポニチ評論家になった田淵氏の元には実際に球団関係者から「(復帰が)早まるかもしれない」という連絡が入っていた。

 連日、田淵氏のそばにいたが、球団から正式なオファーはなかった。6球団が競合した清原和博(PL学園)の交渉権を獲得したドラフト会議を挟んで広岡解任から3週間がたった11月29日、西武が監督就任を要請したのは森昌彦(のちに祇晶)氏だった。

 広岡政権で唯一優勝を逃した1984年に責任を取る形で退団したが、1982年から3年間、監督の懐刀だった元コーチである。「広岡と一緒にやっていたのがいるだろう」。堤義明オーナーの鶴の一声で決まった。

 森監督は1986年から9年間にわたって指揮を執り、チームを8度のリーグ優勝、6度の日本一に導いた。堤オーナーの慧眼である。

 広岡監督時代から通算すると13年間で11度のリーグ優勝、8度の日本一。「広岡―森時代」でくくれば、西武のこの13年間は巨人V9時代に匹敵するほどの黄金期だった。

 広岡監督と森コーチがタッグを組んだ日本シリーズは1978年のヤクルト、1982~3年の西武と3戦3勝。一度も負けたことがない。勝つために何をすべきかを極め時に大胆な策を取る広岡氏と常に最悪を想定して周到な準備をする森氏。私の知る限り日本プロ野球最強コンビである。

 そんな2人の間に亀裂が入ったのは1984年。野球以外のことが原因だった。それ以来、一度も顔を合わせていない。2人の頑なな心を溶かす寝業師はいないのだろうか。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの64歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍でライブの予定が立っていない。

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