鈴木啓示氏「元気でおってやと…」 勝ち星挙げる原動力だった“好敵手”野村克也さんの存在

[ 2020年2月14日 09:00 ]

鈴木啓示氏
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 ヤクルトでリーグ優勝4回、日本一を3回成し遂げた野村克也元監督が11日に虚血性心不全で84歳で亡くなった。選手としても1965年に戦後初の三冠王に輝くなど、実績を残した偉人の死を多くの人が悼んだ。

 通算317勝を挙げた元近鉄の鈴木啓示氏(72)もその一人。訃報は大阪からキャンプ視察のために向かう沖縄行きの機内で知った。昨年の夏頃、甲子園の食堂で会ったのが最後。「元気でおってやと言ったんですけどね」と遠くを見つめた。

 ライバルだった。鈴木氏は65年ドラフト2位で近鉄に入団した。しかし、当時は「近鉄やなくて地下鉄やないか。地下をずっともぐっとるやないか」とヤジられるほど、チーム成績は低迷していた。逆に野村さんが所属した南海は強豪だった。

 「近鉄は万年、最下位。南海や西鉄は花でした。野村さんはその第一人者。(新人だった66年の)前年に野村さんは3冠王を取っていた。この人を抑えたら成長できると思ってやっていた。一つの大きな目標だった。野村さんを抑えれば南海に勝てると」。

 それでも記憶に残るのは打たれた場面が多い。「(NPB歴代最多の)560本本塁打を打たれましたけど、その中でも野村さん、(元阪急の)長池さんにはよく打たれました」と語る。1年目の66年には揃って球宴に出場。第3戦でバッテリーを組んだ。

 「野村さんからカーブ、スライダー、シュート…とサインが出るんですけどね。“僕、投げられませんねん”て言って。(球種がないのがばれて)球宴が終わってからカンカン打たれました」。

 それでも、その悔しさが自らを成長させてくれた。野村さんは本塁打を打った後、ホームに還ってくるまでが極端に遅かったと言う。

 「振り向いたらまだ二塁あたりにおったりして。(打者が)ダイヤモンドを回っている時間というのは投手最大の屈辱の時間なんですよ。その屈辱を一番長く受けた選手ですね。でも、次は三振取ったるわと、悔しさがバネになった」。

 幾度となく真剣勝負を繰り広げた好敵手の存在が、NPB歴代4位の勝ち星を挙げる原動力ともなった。ただ、その顔をもう見ることはできない。「(昨年10月に亡くなった)金田さんにしてみても、野村さんにしてみても、あれだけ強い人でも亡くなるんだなと。いくら強い人でも亡くなる。また、寂しくなった」。楽しげに懐かしいエピソードを語りながらも、胸に空いた穴は隠せずにいた。(記者コラム)

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