令和を前に160キロ腕続々…昭和の怪物が今投げたら?

[ 2019年4月9日 16:44 ]

力投する作新学院の江川卓投手。投球・ピッチング。大会通算最多奪三振記録60は2009年現在、破られていない
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 こりゃまた凄い投手が現れたもんだ。大船渡3年の佐々木朗希。6日、U18ワールドカップ(W杯)高校日本代表第1次候補合宿の紅白戦で投じた1球は中日のスピードガンに「163」と表示された。花巻東の大谷翔平(現エンゼルス)の160キロを上回る高校歴代最速である。

 同じ日、プロ野球ではDeNAの国吉佑樹が巨人戦で日本選手5人目の大台となる161キロをマークした。横浜スタジアムでは今季から高性能弾道測定器「トラックマン」がはじき出した数字をスコアボードに表示している。「これまでより3~4キロ速い」という声がもっぱらだが、同測定器は広島を除く11球団が導入している。よりスタンダードになったと解釈すべきだろう。

 かつて160キロは夢というより、幻想に近かった。1993年、「平成の名勝負」と言われた西武・清原和博との対戦で当時プロ野球最速となる158キロをマークしたロッテ・伊良部秀輝の言葉を思い出す。

 「力を入れて投げたら160キロは出せると思いますよ。でも、出したら肩がぶっ飛ぶような気がするんです」

 日本球界にスピードガンが導入されたのは70年代後半。ナゴヤ球場の左翼席後方に球速表示の電光掲示板が初めて設置されたのは80年だった。売りは小松辰雄の「150キロ」。中日が守っている時は設定を3~4キロ増に変えたという。

 その時代の速球王は間違いなく巨人の江川卓だった。最速151キロ。当時は終速表示で、江川は初速と終速の差が少ない方だったが、今のような初速表示なら160キロ前後が出ていたと思う。そもそも一番速かったのは作新学院時代というのが定説。しかも春夏甲子園に出た3年時じゃない。

 「僕の真っすぐは浮く(ホップするように見える)のとズドーンと速いのと2種類あって、その日の体調によって違う。どっちかというと浮いてくる方が多かったけど、高校時代初めて浮いたのは1年秋、スピード的に一番速かったのは2年夏だと思う」

 2年だった72年夏の栃木大会。江川は初戦から3試合連続ノーヒットノーラン(1試合は完全試合)を続け、準決勝の小山戦も9回まで無安打に抑えた。だが、打線の援護なく0―0で迎えた延長11回、スクイズを決められてサヨナラ負けを喫するのである。
 昭和の怪物が蜃気楼(しんきろう)のように消えた夏。中日のスピードガンやトラックマンがあったら、どんな数字を表示したのだろうか。 (敬称略)

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2019年4月9日のニュース