栗山監督 函館の久慈氏墓前に誓い「北の大地で野球をさらに発展」

[ 2015年6月30日 09:00 ]

久慈氏の墓前で手を合わせる日本ハム・栗山監督

 日本ハム・栗山英樹監督(54)が29日、30日のオリックス戦(函館)に備えて東京から函館入り。チームの練習には参加せず、戦前に早大、実業団の函館太洋倶楽部などで名捕手として活躍した久慈次郎氏の墓参りを行った。

 「大好きな野球を職業とさせてもらっている。北の地に野球を広めてもらい、(プロに誘われながら)函館の大震災で街を立て直すために残った。そんなチームが今も活動している。我々も頑張るので皆さんも頑張ってください。そんなメッセージを伝えた」。そう話した栗山監督は、1年前も墓前に手を合わせた。久慈氏は大谷と同じ岩手出身で、函館オーシャンスタジアムの前にある銅像は「大谷よ、ここに投げろ!」とばかりに、外角低めにミットを構えている。偶然にもその翌日に大谷が西武打線を相手にプロ初完封。「ここで翔平(大谷)が完封してから1年間、いろんなことがあった。それを報告した」と笑った。

 実は栗山町に「栗の樹ファーム」を構えていたことが縁で、栗山監督自身も06年に函館太洋倶楽部創部100周年を記念したトークショーを行ったことがある。教授として籍を置く白鴎大の研究室にも当時の記念盾が飾られている。交流戦後のチームは2勝6敗。「チーム状況は苦しいが、転換させられるようにしっかりと力をもらっていきます」。

 野球に情熱を注いだ先人の遺志を継いで、北の大地で野球をさらに発展させていく。そんな決意でもあった。(横市 勇)

 ▽久慈 次郎 1898年(明31)10月1日生まれ。幼少期を岩手県盛岡市で過ごし、盛岡中(現盛岡一)から早大を経て、実業団の函館太洋倶楽部に入り、都市対抗野球で活躍した。日米野球では全日本軍の主将として沢村栄治とバッテリーを組み、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらと対戦。34年に大日本東京野球倶楽部(現巨人)から参加要請されるが辞退した。39年の試合中にけん制球を頭部に受け、40歳で死去。都市対抗野球の「久慈賞」は久慈氏の敢闘精神を記念して47年から設けられ、59年に創設された野球殿堂で第1回に殿堂入りした。

続きを表示

2015年6月30日のニュース