【内田雅也の追球】夢見る100年先の大木

[ 2024年1月20日 08:00 ]

1936年4月19日、タイガース結成記念試合の甲子園球場スタンド風景。観衆は4225人だった=阪神球団発行『タイガース三十年史』より=

 顧問の外部有識者の1人、ノンフィクション作家の佐山和夫(87)から「木を植えたらどうだろう」という話があった。19日、大阪・梅田のホテルで開かれた甲子園歴史館運営会議。今年8月1日に100周年を迎える甲子園球場について、記念の植樹を提案したわけだ。

 関係者によると、実現するかどうかはわからない。検討中というが、いい話だ。林業を思う。木を植えるのは100年先の未来につながる仕事である。100年を終え、次の100年に向かう。そんな思いが映る。

 出席者の1人は「すばらしい」と話した。「100年後、大木に育つ木を植えてはどうだろう。人びとはその木を眺めて、甲子園の記憶や思い出を語り合う。そんな場所になればいい」。100年先の大木に夢を見る。

 100周年について同じく顧問の元阪神監督・吉田義男(90)は「今の隆盛は先人の苦労の上に成り立っている。リスペクトを忘れてはならない。伝統と歴史の重みです」、阪神OB会長の川藤幸三(74)は「歴史のありがたさ、創始者の方々のしんどさを思う」と話した。

 この甲子園歴史館運営会議の顧問・外部有識者は甲子園球場建設前年、1923(大正12)年にあった顧問委員をなぞっている。日本にまだ本格的な野球場がなかった当時、阪神電鉄は「球界の重鎮」を招いて計画を練った。重鎮とはいえ、佐伯達夫31歳、小野三千麿26歳、小西作太郎31歳、腰本寿29歳……と皆、20~30歳代だった。設計を担当した野田誠三は入社3年目28歳の青年技師だった。日本野球の草創期、若き大正野球人のロマンが詰まっていた。

 人気沸騰の中等野球(今の高校野球)のために造られ、後にタイガースは生まれた。球団も来年90周年を迎える。

 1936(昭和11)年4月19日、甲子園球場で行ったタイガース結成記念試合の観衆は4225人と記録されている。長い風雪の時代を乗りこえてきた。今ではその10倍以上、4万6千人の大観衆が連日詰めかける。

 甲子園歴史館は本年度(今春3月まで)、来場者が史上最多の21万人に達する見込みだという。夏の高校野球100回大会があった2018年度の18万人を上回る。

 「野球の聖地に」という100年前の思いは現実となった。思いを次の100年につないでいきたい。 =敬称略= (編集委員)

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