杉下茂さん フォーク置き土産に天国へ 太平洋戦争も経験「手投げ弾を投げ強肩に」伝説の神様

[ 2023年6月17日 05:30 ]

杉下茂氏の現役時代のピッチング(1958年撮影)
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 1954年に中日の初優勝と日本一に貢献した杉下茂(すぎした・しげる)さんが12日午後10時18分、都内の病院で間質性肺炎のため死去した。16日、球団が発表した。97歳。東京都出身。通夜・葬儀は近親者で執り行われた。当時では大柄な1メートル82の長身からフォークを武器に通算215勝を挙げ、監督、コーチとして各球団で後進の育成に尽力した。

 魔球と呼ばれ、現代野球では不可欠となった球種を武器に一時代を築いた「フォークの神様」が、静かに去った。遺族によると、杉下さんは亡くなる当日の午前中は普段通りに生活していた。しかし、午後になり体調不良を訴え、病院へ搬送された。

 中日の草創期を支えた。太平洋戦争から復員後、社会人を経て明大から49年に中日に入団。日本プロ野球で初めて本格的にフォークを操り、50年から6年連続で20勝以上を挙げ、通算215勝。54年には自己最多タイとなる32勝を挙げ、最多勝、最優秀防御率などタイトルを総なめにし球団初の日本一に貢献した。

 55年5月10日の国鉄(現ヤクルト)戦では金田正一と投げ合い、ノーヒットノーランを達成するなど名勝負を演じた。史上初の沢村賞3度受賞、セ・リーグ初の投手5冠も達成した。打撃も非凡だった。50年4月21日の西日本戦でプロ1号が満塁弾。同年は打率・269、3本塁打、15打点。61年に大毎へ移籍し、同年引退した。

 帝京商(現帝京大高)時代を振り返り、「ひょろひょろで背が高いだけで弱肩ゆえに一塁手。戦争に行って手投げ弾を投げていたら強肩になった」。フォークとの出合いは明大時代。帝京商監督だった天知俊一さんから「指の間で挟んで放る球でフォークというのがある」と伝えられ、「僕は指は開くし関節は柔らかい」と挑戦した。練習のための球が十分にない時代。ワンバウンドで球に傷がつくと怒られるため「使えなくなった球を放っていた」と語っていた。

 85年に野球殿堂入り。指導者としても後進の育成に尽力した。66年に阪神、68年に中日で監督を務め、阪神や巨人などで投手コーチを歴任。96年から19年まで中日の春季キャンプで臨時コーチを務めるなど90歳を過ぎても精力的で指導熱が冷めることはなかった。

 杉下さんが所属した中日と阪神はこの日、哀悼の意を表した。バンテリンドームで行われた中日―日本ハム戦前に、両軍がベンチ前で整列し観客とともに黙とう。喪章がついた弔旗が掲げられた。多大な功績を残し、後進の育成に尽力した「神様」が、その球界に見守られ天国へ旅立った。

 杉下 茂(すぎした・しげる)1925年(大14)9月17日生まれ、東京都出身。帝京商から兵役を経て、ヂーゼル自動車工業(現いすゞ自動車)に入社。後に明大専門部入学。49年中日入団。54年に32勝を挙げ中日の初優勝に貢献。西鉄との日本シリーズでも3勝を挙げて日本一に貢献しシーズン、シリーズともMVP。沢村賞に3度輝き、58年に一度引退し、59年から2年間中日の監督を務める。61年に大毎で現役復帰。通算成績は525試合215勝123敗、防御率2.23。阪神、中日で監督、大毎、巨人、西武で投手コーチを務めた。85年野球殿堂入り。

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