引き立て役だった阪神 「これが最後」とマウンドに立つ黒田の姿勢から学べ

[ 2016年7月24日 08:31 ]

<広・神>力投する黒田

セ・リーグ 阪神0-7広島

(7月23日 マツダ)
 【内田雅也の追球】野球を愛した詩人、サトウハチローの「甲子園に凡戦なし」という言葉を覚えている。直筆の色紙(恐らく複製品だろう)が実家にあった。甲子園とは、むろん、春夏の高校野球を指している。

 負けたら終わりのトーナメントを戦う高校球児たちの戦いぶりには、スコアはともかく凡戦はない、というわけだ。

 だが、プロには凡戦が存在する。この夜の阪神である。日米通算200勝のかかった広島先発、黒田博樹の引き立て役でしかなかった。7回まで散発5安打、無得点。4番・福留孝介以外は相手にならなかった。

 少し前にも書いたが、この夜の相手でもある。もう一度書いておく。黒田には<1試合1試合「これが最後の試合だ」と思ってマウンドに上がれる>という自負がある。著書『クオリティピッチング』(KKベストセラーズ)に記している。

 負けたら終わりの高校野球精神か? いや、そんな悲愴(ひそう)感ではない。「これが最後」は実にプロらしい覚悟である。

 <(ファンには)年に1回の楽しみとして来てくれている人もいることでしょう。もし、年に1回の試合が僕の登板日だったとしたら……、気持ちの入っていない投球はできない>。かつて、長嶋茂雄、王貞治も同じ趣旨の話をする。ファンのために、必死になれるのが本当のプロである。

 ファンという大ざっぱなとらえ方ではイメージしづらいかもしれない。もっと具体的に、妻や子や、独身ならば恋人や友人でいい。父や母でもいいだろう。身近で見てくれている誰かを思い、プレーするのである。

 プロは仕事だからプレーするのか。むろん、稼がねばならない。だが、好きな野球ではないか。

 あの美しい映画『フィールド・オブ・ドリームス』の原作、W・P・キンセラの『シューレス・ジョー』(文春文庫)に「野球を愛していた」とジョー・ジャクソンのセリフがある。「おれは食うために野球をやらなきゃならなかった。ほんとはただで野球をやって、ほかの仕事で食いたかった。肝心なのは試合、球場、匂(にお)い、音だった」

 敗れようとも野球への愛や情熱が感じられるプレーというものはあるはずだ。「言うことはわかるよ」と敗戦後、チーフコーチ・平田勝男がうなずいていた。

 猛虎たちよ。誰かのために、そして何より野球のためにやろうではないか。=敬称略=(スポニチ編集委員)

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2016年7月24日のニュース