松井 28日引退会見へ メジャー球団から正式オファーなし

[ 2012年12月28日 06:00 ]

自身の進退を決断することになった松井

 レイズからFAとなっていた松井秀喜外野手(38)が現役引退を決意し、27日(日本時間28日)にニューヨーク市内で記者会見を開くことが、26日(同27日)分かった。古巣・巨人も動向を注視する中で、メジャー復帰への道を探していたが、具体的なオファーはここまで届かず、プロ20年間の現役生活にピリオドを打つ。日米通算507本塁打をマークし、ゴジラの愛称で親しまれた希代のスラッガーがついにユニホームを脱ぐ。

 豪快なアーチでファンを魅了し続けてきた松井が、ついにバットを置く決断を下した。

 20年目の今季は最も過酷なシーズンとなった。11年オフにアスレチックスからFAとなったが、開幕を過ぎてもオファーは届かなかった。レイズとマイナー契約を結び、入団会見を行ったのは5月1日。「ただプレーがしたい。野球がしたいだけ」。不退転の気持ちを語ったが34試合で打率・147、2本塁打、7打点。7月25日に戦力外通告を受けた。

 代理人を務めるアーン・テレム氏も現役続行に向けて、メジャー球団と交渉を続けたが、吉報は舞い込まなかった。恩師の巨人・長嶋茂雄終身名誉監督からは何度も日本球界復帰を勧められたが、その場合は巨人が最有力となる。故障を抱える両膝を考えれば、DH制がなく人工芝の本拠地・東京ドームでフル出場は難しい。10月になると「いらないと言われれば、それまで。悔いはない。できる限りのことをやってきたつもり」と引退の覚悟を口にした。父・昌雄さん(70)も「彼の置かれている状況からすれば(メジャー契約は)現実的に非常に厳しい。(引退しても)私自身は驚かない」と話した。

 92年夏の甲子園、星稜の4番は明徳義塾戦で伝説の5打席連続敬遠。悲劇のヒーローとして日本中から同情されたが、巨人の入団会見では「ファンに夢を与えるプレーヤーになりたい」と自らの力で本物のヒーローになった。本塁打王に3度輝き、MVPも3度受賞した。02年は自身初の年間50本塁打をマークし、巨人時代の10年間で332本塁打。日本最強打者の称号を得た。

 同年オフ、夢だったメジャー挑戦に踏み切った。「裏切り者と思われるかもしれません」「命を懸けて頑張りたい」と、会見で悲壮な決意を表明。ヤンキース移籍後も信念を持ってプレーした。04年には31本塁打。メジャーで日本人初の大台に到達した。06年には左手首、07年に右膝、08年に左膝を手術したが、リハビリで乗り越えて09年にはワールドシリーズMVPに輝き、念願の世界一もかなえた。

 昨季まで背負い続けた背番号55。王貞治のプロ野球年間最多55本塁打の更新を託されたが、これを果たすことはできなかった。ただ、勝負強さや勝利にこだわるチーム打撃、野球に対する真摯(しんし)な姿勢は国境など関係なく世界中のファンに愛された。多くの日本人選手が海を渡る時代となったが、長距離打者として認められたのは松井一人だけ。記録にも記憶にも残る男だった。

 ◆松井 秀喜(まつい・ひでき)1974年(昭49)6月12日、石川県生まれの38歳。星稜から92年ドラフト1位で巨人入団。主砲として4度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献。02年オフにFAでヤンキース移籍。09年はワールドシリーズMVPに輝いた。その後はエンゼルス、アスレチックスを経て今季はレイズに所属。1メートル88、102キロ。右投げ左打ち。

 【松井のこれまで】

 ▼2・22 去就が決まらないまま再渡米。

 ▼5・1 レイズとマイナー契約を結び、入団会見。「ただプレーがしたい。野球がしたいだけ」

 ▼5・9 マイナーの練習試合で224日ぶりの実戦出場。

 ▼5・28 メジャー昇格が決定。翌29日のホワイトソックス戦に「6番・左翼」で先発し、4回に1号2ラン。

 ▼7・2 ヤンキース戦の守備中に左太腿裏の張りを訴えて途中交代。

 ▼7・22 マリナーズ戦の9回2死一、二塁のサヨナラ機で代打起用されるも凡退。結果的に今季最後の打席となった。

 ▼7・25 メジャー40人枠から外され、事実上の戦力外通告を受ける。

 ▼8・1 レイズから自由契約になる。

 ▼11・15 アストロズのジム・クレイン・オーナーが松井を獲得候補に挙げていることを明かす。(日付は全て現地時間)

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