平尾誠二Jr.のトライ 父さん、オレ26歳でラグビー始めたよ 今年からクラブチームに所属し奮闘

[ 2021年12月10日 05:30 ]

試合でボールを運ぶ平尾昂大さん(撮影・後藤 大輝) 
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 2016年に胆管細胞がんで他界した元ラグビー日本代表監督の平尾誠二さん(享年53)の長男、昂大さん(こうた、27)が今年、ラグビーを始めた。亡き父と縁深い神戸市のクラブチーム「SCIX(シックス)」でプレーする。かつて、父への劣等感から、かじっただけでやめた楕円(だえん)球の魅力に、今、ドップリとハマっている。

 端正な顔立ちと、大きな瞳は、父とそっくりだ。筋トレで鍛え上げた1メートル77、85キロの体も目を引く。12月5日、堺市で行われた近畿クラブリーグの3部に相当するCリーグの公式戦。普段はフランカーの平尾さんは、この日、WTBで先発した。

 競技歴1年未満の“素人”ながら、経験者ばかりを相手に、体を張ったプレーを何度も見せた。鋭い突破もした。顔と手足につくったすり傷は、土のグラウンドでファイトした証拠だった。

 これまで、ラグビーのプレーには距離を置いてきた。小、中は野球とバスケットボール。高校入学前に2カ月ほど楕円球に触れたが、それっきり。米国で過ごした高校、大学はラクロスを中心に他のスポーツに興じた。ラグビーは見ることを専門にしてきた。

 プレーを避けたのには理由がある。「以前は父と比べられるというのがあった」。日本一有名なラガーマンと同じ道を進んだ先の苦労が、子どもながらに予想できた。父の「男の子が生まれたらラグビーを」というひそかな思いは、夢のまま時が流れた。その父も16年に他界した。

 関西圏で会社員生活を送る26歳の今春、転機が訪れた。取引先に誘われ、仕事のプラスになればと思い、チームに入った。しかし、気付けば「営業なんか、どうでもよかった」と競技にのめり込んだ。かつて抱いた劣等感は、もうなかった。

 「父の人生(の哲学)は、おもしろいか、おもしろくないか、だった。僕は今、おもしろいからやっている」

 父が設立にかかわった神戸市のNPO法人「SCIX」のクラブチームは、選手が16人しかいない。当初は別のチームで競技を始めたが、「僕が入ることで、父がつくったチームのためになれば」と今夏、移った。神戸製鋼V7時代の名フランカー、SCIXの武藤規夫監督は「プレーがしつこい。そこはお父さんと違うかな(笑い)。よく声を出し、ムードメーカーだね。平尾さんも盛り上げるのが好きな人だった」と感慨にふけった。

 目指すスタイルは、スター選手だった父とは対照的な「縁の下の力持ち」。人一倍走り、体を張り、仲間を励ますことを理想とする。「父が見たら、センスないなあって言いそう」。試合後の表情は、痛みさえも心地いいかのように、まぶしかった。(倉世古 洋平)

 《平尾誠二さんの足跡》「ミスターラグビー」と称された平尾誠二さんは、ラグビー界に新しい風を吹き込んだ。京都市で生まれ育ち、伏見工(現・京都工学院)3年の80年度、同校の全国高校ラグビー大会初優勝にSOとして貢献。荒れた学校が強豪校に生まれ変わるストーリーは、ドラマ「スクール☆ウォーズ」のモデルになった。

 CTBでも活躍した同大では2年から全国大学選手権3連覇。“東高西低”の勢力図に風穴をあけると、神戸製鋼でも歴史を変えた。監督を置かない「キャプテン制」のチームの主将として、日本選手権初優勝。司令塔で君臨。7連覇の金字塔を打ち立てた。

 日本代表でW杯に3度出場し、主将も務めた。34歳の若さで日本代表監督に就任し、99年W杯を指揮。斬新な戦術を導入しただけでなく、初めて外国人を主将に据えるなど、過去の常識にとらわれなかった。神戸製鋼では総監督、ゼネラルマネジャーを務めた。

 読書家で知識やアイデアに優れ、他スポーツの指導者や経営者ら多彩な面々と交流。影響を与える存在だったが、16年10月に53歳で亡くなった。

 ▽SCIX(シックス) 2000年4月に、地域とスポーツの振興を図るために、故平尾さんが中心となって設立した特定非営利活動法人。正式名称は「スポーツ・コミュニティ・アンド・インテリジェンス機構」。ラグビーチームの運営のほかに、スポーツの知識を深める講座、コーチングセミナーなどを開催している。

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