×

【今西和男 我が道10】広島に勇気を与えた日本リーグ1年目優勝

[ 2026年2月10日 07:00 ]

65年度天皇杯で優勝(左から2人目が筆者)
Photo By 提供写真

 第1回日本サッカーリーグは1965年(昭40)6月6日に開幕した。クラマーさんの提言から半年あまりでスタートできたのは、日本のサッカー関係者の「何とか日本を強くしたい」という強い思いからだった。

 予想では、実業団大会や天皇杯の戦績から、八幡製鉄と古河電工が優勝候補、それを東洋工業が追う展開とみられていた。東洋工業はGK船本幸路、MF小城得達(ありたつ)、FW松本育夫、桑原弘之さんの実弟FW桑原楽之(やすゆき)、FW桑田隆幸ら若手が加わって戦力が充実していた。

 開幕戦の豊田自動織機戦は愛知県刈谷市で行われ、2―0で勝ったが、私は出場することができなかった。日本リーグ初出場は、後半戦の第6節、9月12日の名古屋相互銀行戦(広島大学付属高校グラウンド)で、私は途中出場でセンターハーフ(CH)、今のセンターバック(CB)に当たるポジションに入り、3―1で勝った。次戦の9月19日の古河電工戦(三ツ沢球技場)は初先発し、2―1で勝利。チームはその後も勝ち続けた。10月10日に東京五輪1周年として国立競技場で開催された八幡製鉄戦は、7勝2分けの無敗同士の首位攻防戦。入場料が無料だったこともあって4万人の観客が詰めかけ、東洋工業が3―2で勝利、首位をキープした。

 この頃は「東京のチームに負けるものか」という意識が強く、それもエネルギーになっていた。最終戦の11月7日の広島大学付属高校でのヤンマーディーゼル戦も雨の中、11―0で大勝し、12勝2分けの無敗で、八幡製鉄を抑えて優勝、日本リーグ1年目のシーズンを終えた。プロ野球の広島カープよりも先に優勝できたのは、ちょっと鼻が高かった。
 この頃、広島市内にスタンド付きのスタジアムがなかった。旧広島空港近くの広島県営グラウンドができたのは67年夏で、それまでは広島国泰寺高校、広島大学付属高校、広島皆実高校のグラウンドを使っていた。芝ではなく、土のグラウンド。広島の土は粘土質で軟らかく、雨が降るとスパイクにくっついて走りにくかった。私はボールコントロールがうまくなかったので、大勢のお客さんの前で試合をするのは緊張した。

 私はこの年、14試合中9試合に出場し、第6節以降は全試合に出場した。チームは優勝できたし、全体的には納得できるシーズンだった。この年度は天皇杯が日本リーグ終了後の1月13日から16日まで、8チームが参加して東京の駒沢競技場などで開催された。東洋工業は中央大学、関西学院大学を破って決勝に進出し、日本リーグでも優勝を争った八幡製鉄を、松本や桑田のゴールなどで3―2で破って優勝し、2冠に輝いた。

 広島市は被爆して焼け野原となった中からの復興を目指していた。広島カープができて市民に勇気を与えたが、「東洋工業サッカー部も、広島の人に勇気を与えることができた」と誇らしく思った。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

続きを表示

この記事のフォト

「サッカーコラム」特集記事

「日本代表(侍ブルー)」特集記事

サッカーの2026年2月10日のニュース