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【井原正巳 我が道13】オフト監督が示したW杯への道 チームを本気にさせたロジック

[ 2025年7月13日 07:00 ]

アルゼンチン戦でバティストゥータと競り合う
Photo By 提供写真

 Jリーグ開幕へ向けて、最後の日本リーグが終盤に入った頃だった。日本代表の改革もさらに進み、1992年(平4)3月にハンス・オフト監督の就任が発表された。日本代表としては初の外国人監督で、初のプロ監督。日本サッカー協会も思い切ったチャレンジをしてきた。

 オフト監督のことはよく知らなかったし、誰が日本代表に選ばれるのかも分からない不安もあったが、就任会見で「W杯に連れて行く」と言っていたのは印象的だった。5月に浜名湖で最初の合宿があった。接してみると、日本語も少し分かり、冗談も言う気さくなオヤジで、距離は近く感じられた。ピッチ上では日本人監督とは違うアプローチで、アイコンタクト、トライアングル、スモールフィールドの3つのキーワードを掲げて組織的なサッカーに取り組んだ。チームを本気にさせるロジックで「どんな試合でも勝つことで、W杯の道が開ける」と感じた。

 選手は横山謙三監督時代から一緒にやっていた選手が多かったが、新たにMF森保一やFW高木琢也が招集された。特に森保は日本リーグで92年2月9日に大分市営陸上競技場で対戦していたが、高木琢也の2ゴールなどで0―3で敗れたこともあって、まったく覚えていなかった。だが、練習が始まると、なぜ彼が呼ばれたかよく理解できた。DFから柱谷哲二さんがいろいろと要求しても、中盤で働き蜂のようにそれをやってくれた。前線とDFのつなぎ役を献身的にやり、汗かき役として黒子に徹していた。体格がいいわけでも、スピードがあるわけでもなかったが、球際も怖がらず、勇気を持ってプレーする選手で芯の強さに感心した。いつでも謙虚で、人間的にも素晴らしかった。

 最初の試合はキリンカップで、アルゼンチンとウェールズと対戦した。それまで日本代表の強化試合はクラブチームとの対戦が中心だったが、この時から代表チームと対戦する国際Aマッチ中心になった。アルゼンチンは86年のW杯で優勝した世界トップクラスのチーム。選手の代表への帰属意識が強く、主力選手も招集されれば必ず来る。それだけステータスで、「誰でも入れるものではない」と考えていた。実際、FWバティストゥータやカニーヒアらも出場してベストメンバーだった。バティストゥータに決められて0―1で敗れたものの、自分たちが目指そうとしているものが、強豪国相手にできたし、私も落ち着いてプレーすることができた。“世界”を相手に通用する部分もあったことは自信になったし、改めて「W杯を目指すなら、強豪国と対戦しないと力は付かない」と思った。ウェールズにも0―1で敗れたが、W杯米国大会予選へ向けて、いいスタートが切れた。そして、「どんな試合でも勝つことで、W杯の道につながっていく」と感じた。

 ◇井原 正巳(いはら・まさみ)1967年(昭42)9月18日生まれ、滋賀県出身の57歳。守山高から筑波大を経て横浜Mの前身の日産入り。磐田と浦和でもプレー。アジアの壁と言われ、大学2年生の時に日本代表入り、ドーハの悲劇とジョホールバルの歓喜を経験、98年W杯フランス大会に主将として出場。代表通算122試合。引退後は北京五輪代表コーチ、柏コーチ、福岡監督、柏監督を務めた。現在は解説者、6月にU―20Jリーグ選抜監督も務めた。7月から韓国2部・水原コーチ。

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