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【ピッチ外のスペシャリスト】PL魂で乗り越えたコロナ禍シーズン G大阪・小野忠史社長

[ 2021年2月17日 05:30 ]

G大阪の小野忠史社長
Photo By スポニチ

 42年前の情景は今も色あせていない。1979年3月29日の選抜高校野球。前年夏の甲子園で初優勝したPL学園が中京商と対戦した1回戦だった。

 2点リードの4回。三塁を守る自分の股下を白球が抜け、それを機に逆転を許した。だが、1点を追う8回に同点打を放つと、続く小早川毅彦(元広島など)が勝ち越し打。チームは逆転勝利し、4強まで進んだ。

 「逃げたいと思っていても、逃げられない状況ですよ。でも自分が付けた火種を自分で消した。その経験があるから営業部時代から常にネバーギブアップと言い続けている」

 そう笑うのはG大阪の小野忠史社長(59)。「逆転のPL」を体現した3番打者は今、サッカー界に身を置く。

 PL学園―東洋大―松下電器(現パナソニック)で野球一筋の道を歩み、33歳から社業に専念。自動車メーカーを相手に車載機器を提案する事業の統括部長まで務めた。サッカーと無縁の生活は、19年4月のG大阪副社長就任を機に一変した。

 直前の2月。これからの“職場”となる本拠地を訪れた。スタジアムの熱狂、独特の応援スタイルに「鳥肌が立った」。「われわれの活動は大きな社会的影響を持つ。お金では買えない価値がある」。年間1600億円規模を動かしていた営業マン時代と比べ、扱う金額は少なくても、人間の心に働きかける仕事に魅力を感じた。

 新型コロナの緊急事態宣言下の20年4月、社長に就任。最初に選手やスタッフに話したのは「感謝の気持ちを持つこと」だった。100超のスポンサーや4万人近いファンクラブ会員がいる。苦難は覚悟の上だった。

 とはいえ、就任当初、Jリーグは再開の見通しが立たない状況で、いつクラスターが発生するかも分からない不安と恐怖もあった。そして経営。だが“逆転のPL”魂は競技を超えて健在だった。

 「細かなところを見逃しがちになるが、クラブハウス内の電球は半分外しています。どれだけ効果があるかだけど、大事なのは危機意識。業者さんに委託していた掃除も社員で手分けしている。それでも赤字だけど、やらなかったらさらに赤字になっていた」

 高校時代、山本泰監督(旧姓鶴岡)からは野球だけをやっていれば良いとは教わらなかった。強豪校の一員ゆえに校内の模範になるべきだと叩き込まれた。関西Jクラブで唯一コロナ感染者を出さなかったように外食制限や行動履歴はいち早く義務付けた。だからこそ昨年10月、道交法違反の疑いで書類送検されたFWアデミウソン(契約解除処分)の不祥事は「許されないこと」と厳しい。

 激動の20年はリーグ2位。入場制限や応援制限が強いられる中だったが、サポーターの後押しがあったからという。昨年12月19日のリーグ最終戦・清水戦。小野は松波強化部長を通じて「場内一周の際は私語を慎んでファンに最大限に応えよう」と選手に伝えた。例年ならおしゃべりする選手が散見されるシーンだが、恩返しの意味を込めるようにとの思いだった。

 迎える新シーズン。小野は年末年始の休日を返上してスポンサー企業全てを回った。「勉学に優れた人とは違う毛色だと思う。僕は首から下で仕事をするタイプなんで」。豪快に笑うが感謝の気持ちを直接伝えることで今季も一緒に戦う意思を示した。コロナ終息後はホームタウン活動も改善する意向だ。

 ネバーギブアップ――。自らの失策を取り戻した甲子園での一打は今も支えになっている。

 ◆小野 忠史(おの・ただし)1961年(昭36)7月22日生まれ、大阪府河内長野市出身の59歳。PL学園初優勝の78年夏の甲子園では2年でベンチ入り。79年春の選抜では「3番・三塁」で4強に貢献。東洋大を経て松下電器(現パナソニック)。20年4月にG大阪社長就任。

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