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福島・尚志 仲村監督、11年度県勢初の全国選手権3位で届けた勇気 原動力はなでしこ世界一

[ 2021年2月13日 05:30 ]

12年1月2日、全国選手権初戦の守山北に勝利し、応援団の生徒とハイタッチする仲村監督(右)
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 あの日から、もうすぐ10年――。東日本大震災の影響を受けながらも必死にプレーしたアスリートと、陰で支えた指導者が、「3・11」と「忘れられない一日」を振り返る。

 福島県の高校サッカー界をリードする尚志は震災の苦難を乗り越え、2011年度の全国高校選手権で県勢過去最高成績となる3位に輝いた。なでしこジャパンのW杯優勝に心を打たれた仲村浩二監督(48)は、「福島のなでしこ」を目指したことが快進撃の原動力につながったと語った。

 3月11日。午後2時46分。仲村監督は、校舎からグラウンドへと一目散に走った。部活動の前に選手の安否を確認した。全員が無事だったが、その後チームは解散。13時間かけて、マイクロバスで選手を送迎している間、ふと思った。

 「もうサッカーは終わっちゃうんだな」

 だが、「サッカーファミリー」の底力で、復興へと少しずつ歩み始める。3月27日には仲村監督の母校でもある習志野高のグランドで、尚志は練習を再開。プレミアリーグのアウェー戦では、札幌ユースなど相手チームが水分やボールの調達などの準備を行ってくれた。Jリーグ全チームからサイン入りのフラッグも届き、「スポーツの力って半端ない。サッカーって特に凄い」と実感した。

 もちろん苦難はあった。4月中旬から尚志での練習を開始したが、放射線の影響もあり、約2時間に限定された。雨が降れば即中止となるなど、神経を擦り減らした。3人の推薦入学辞退者も出て、仲村監督は「めいっていた」と心身共に限界だった。

 だが、迎えた7月17日。自然とテレビにかじり付いていた。女子W杯ドイツ大会でなでしこジャパンが世界一に輝いた。トロフィーを掲げる澤穂希に金の紙吹雪が舞うと、涙が止まらなかった。「チビっ子軍団が決勝で米国相手にとにかく頑張ってた。一生懸命やる姿に希望があった」。仲村監督は立ち上がり、決意した。

 「福島県のなでしこジャパンになろう」

 泥くさいサッカーを徹底した尚志は、11月の選手権県予選で富岡に勝利し、3年連続の全国切符を得た。全国選手権では守山北(滋賀)との初戦で仲村監督はベンチに座った瞬間、鼻血が出た。特別な年の被災地の代表校として、自然と興奮していた。「戦術なんて必要なかった」。2―1で勝利すると快進撃を続け、県勢初の3位となった。「元気や勇気を届けようとした。でも、僕らは逆に県民から希望をもらっていた」と振り返った。

 大会後、多くのファンから手紙やメールが届いた。「福島県に住んでいます。震災があって県外に行こうか悩んでいたけど、みなさんの活躍もあり、福島県に残ろうと決意しました」。「会社がつぶれてしまった。でも、あんちゃんが頑張っているからもう一回頑張ってみるよ」。「手術受けないで死のうと思った。でも、みんなの頑張りで受けてみます」。仲村監督は改めて思った。

 「スポーツの力って半端ない」

 震災から10年。大切にしていることがある。「当たり前が当たり前じゃなくなる時が来る。だからこそ、毎日を一生懸命やりたい」。仲村監督は、今日も必死に汗を流す。

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