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木村和司、伝説のFK サムライブルーの胎動が始まる

[ 2020年5月13日 06:30 ]

1985年10月26日W杯アジア最終予選 韓国戦で芸術的なFKを決める木村和司(撮影・スポニチ東京写真部)
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 【Lega-scene あの名場面が、よみがえる。~サッカー編~】昭和、平成の名場面を本紙秘蔵写真で振り返る「Lega―scene(レガシーン)」。サッカー編の第2回は86年W杯メキシコ大会のアジア東地区最終予選。日本は韓国とホーム&アウェーで対戦し、勝てば初の本大会出場だった。しかし、85年10月26日の国立競技場での第1戦は、韓国に2点先行された前半43分に、10番・木村和司のFKが直接決まって1点差に迫ったものの黒星。11月3日のアウェー第2戦も0―1で敗れ、悲願を逃した。W杯出場の夢をかなえるために、日本はその後、12年の月日を費やした。

 ゴール正面約25メートル。FKの名手・木村和司が右足でカーブをかけたボールはゴール左上隅に吸い込まれた。歓喜に沸く国立競技場。だが、あと1点が遠い。第2戦も敗れて世界への扉を開くことはできなかった。

 それまで日本では「W杯は欧米のプロ選手が出場する大会。プロがない日本にW杯は夢舞台で五輪が現実的な目標」だった。W杯は見るものだったが、あと一歩で手が届くところまで来たことは大きかった。

 この試合、6万2000人の観衆が詰めかけた。これほどまで大歓声を受けたのは初めてだった。敗れはしたものの、日本代表の強化を本気で考える機運が生まれた。韓国は一足早く83年にプロリーグをつくり選手を強化していた。プロとアマの差は大きく、「日本でもプロを」の声が次第に大きくなった。

 その思いが8年後の93年のJリーグ開幕につながった。そしてW杯は98年フランス大会で初出場。今では6大会連続出場だ。多くの人の情熱に火を付けたのはカズシのFKだった。

 《絶叫、タメ息》韓国との決戦には6万2000人の大観衆が国立競技場に詰めかけた。日本サッカーの大一番に日本中が盛り上がったが、夢はかなわなかった。紙面には「W杯へ日本手痛い黒星」「62000観衆絶叫、タメ息」など厳しい見出しが躍る。森孝慈監督は「これからが、我々の真価を発揮するときだ」と言っていたが、雪辱を期した第2戦も敗れた。石井義信監督が率いた2年後のソウル五輪もあと一歩で中国に敗れた。だが、敗れたことが逆にプロ化の機運を一気に高めた。 

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2020年5月13日のニュース