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長沼健氏死す…日本サッカー最大の功労者

[ 2008年6月3日 06:00 ]

96年5月、日韓共催が決定しW杯のトロフィーを掲げる長沼健・日本サッカー協会会長(左)と鄭夢準・韓国サッカー協会会長

 日本代表監督として68年メキシコ五輪の銅メダルに導き、日本サッカー協会会長時代には02年W杯の日本招致を実現させた長沼健(ながぬま・けん)氏が2日午後1時15分、肺炎のため都内の病院で死去した。77歳だった。広島市出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。長沼氏は日本代表として活躍した後、62年に32歳の若さで監督に就任。その後も日本協会の役員としてJリーグ創設に尽力するなど、サッカー界の発展に寄与した。最大の功労者の突然の訃報に、サッカー界は深い悲しみに包まれた。

 長沼氏は今年に入ってから体調を崩していたが、1月には沖縄で行われた日本代表のOB戦に参加。2月初めにも副会長を務めている日本体協の会議で宮城に出張するなど精力的に執務をこなしていたが、大事なW杯3次予選の試合前に、ついに帰らぬ人となった。

 長沼氏のサッカー人生は日本サッカーの歴史そのものだった。32歳の若さで日本代表監督に就任、2度の五輪で指揮を執った。当時、特別コーチに就任したクラマー氏が同氏の人柄と情熱、指導力に目を付けて推薦し、釜本、杉山らの活躍もあって64年東京五輪は8強に進出。68年メキシコ五輪では銅メダルを獲得して世界中を驚かせた。

 94年から4年間の日本協会会長時代も日本サッカー界のかじ取り役として大きな足跡を残した。96年には28年ぶりにアトランタ五輪出場を果たし、西野朗監督ら若きイレブンがブラジルに勝った。02年W杯招致委員会の実行委員長としても世界中を飛び回って日本支持を訴えた。その距離は75万キロ、地球19周分にもなったという。単独開催は果たせず、最終的には韓国との共同開催になったが、W杯の日本開催が実現したことは大きな成果だった。

 97年11月には悲願のW杯本大会初出場も実現させた。9月から始まった最終予選の途中で当時の加茂周監督の更迭を決断。退任後「会長として一番つらいことだった」と振り返った。結果的にはその決断が岡田新監督を誕生させ、日本をW杯フランス大会出場に導くことになった。選手としても関学大、中大を経て実業団の古河電工(現ジェフ千葉)でFWとして活躍。初めて日本が参加した54年のW杯予選韓国戦でゴールを決めた。

 98年のW杯フランス大会後に会長を退任、その後は名誉会長や最高顧問としてサッカー協会を側面からサポートしていた。メキシコ五輪で長沼監督の下でコーチを務めた日本協会の岡野俊一郎名誉会長は「実の兄を失った気持ちで、ショックは言葉に表せない。メキシコ五輪の銅メダルを含め、その足跡の大きさは、日本のサッカーの歴史に永遠に記録されるものだ」と功績を称えた。

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2008年6月3日のニュース