粋さ、しゃれっけ、凄みで父超えた吉右衛門さん

[ 2021年12月2日 05:30 ]

歌舞伎俳優・中村吉右衛門さん死去

09年、新橋演舞場の五月大歌舞伎「鬼平犯科帳」で当たり役の鬼平を演じる中村吉右衛門さん
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 【悼む 木村隆】歌舞伎界は大きな支柱を失った。長命な歌舞伎俳優の中で吉右衛門の死は少しばかり早かった。考えてみれば、僕の演劇記者時代は高麗屋一家(八代目松本幸四郎のちの初代松本白鸚、長男の市川染五郎のちの九代目松本幸四郎=現二代目松本白鸚、2歳下の弟二代目中村吉右衛門)の東宝時代から始まっているのだが、東宝時代は兄の染五郎だけが「ラ・マンチャの男」や「王様と私」などミュージカルなどで脚光を浴びて、弟の吉右衛門はどちらかというと冷や飯食いの、いつもやる気なしの体であった。それが再び松竹に戻ると、水を得た魚のように歌舞伎の世界で生き生きと泳ぎだし、あっという間にトップへ躍り出たのであった。

 中でも「仮名手本忠臣蔵」の大星由良助や「寺子屋」の松王丸、「勧進帳」の弁慶、「熊谷陣屋」の熊谷直実などは群を抜いた。口跡に優れ、卓抜なセリフ術は初代譲りだった。

 その初代吉右衛門は娘の正子さんが八代目幸四郎に嫁ぐときに、2人の男の子が生まれたらどちらかを養子に出すことを約束した。約束どおり2つ違いの男の子が生まれ、吉右衛門は播磨屋の養子となり、兄弟で高麗屋と播磨屋の大名跡を背負うことになるのだが、養子に出された吉右衛門は実の父母と暮らせぬ悲しみなどから兄を恨んだという話もある。この兄弟が事あるごとにライバル関係を揶揄(やゆ)されるのもそのへんが発端かもしれない。

 吉右衛門が一般的にも人気を得たのは89年7月からフジテレビ系で放映された「鬼平犯科帳」が大きいだろう。江戸の盗賊を取り締まる長谷川平蔵役は2016年まで続いた。この役を父の八代目幸四郎が演じたときに国際放映に取材に行っているのだが、吉右衛門は江戸っ子の粋さ、しゃれっけ、凄みなどで池波正太郎の世界を縦横に泳ぎ切り、父親を完全に超えていたといえる。歌舞伎でもその風貌、貫禄、落ち着き、芸の大きさ。いずれを見ても群を抜いていた。見事な逆転の人生劇であった。(スポニチ本紙OB、演劇評論家)

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2021年12月2日のニュース