内海桂子さん死去 波乱万丈97年、好江さんと二人三脚 駆け抜けた4時代――「経験は全部芸になる」

[ 2020年8月28日 05:30 ]

内海桂子さん
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 女流漫才コンビ「桂子・好江」で人気を博し、現役最年長芸人として活躍した漫才協会名誉会長の内海桂子(うつみ・けいこ、本名安藤良子=あんどう・よしこ)さんが22日午後11時39分、都内の病院で多臓器不全のため死去した。97歳。東京都出身。近親者のみの密葬が27日、東京・町屋斎場で営まれた。

 大正に生まれ昭和、平成、そして令和と時代とともに97年の人生を駆け抜けた内海桂子さん。1歳になる直前に関東大震災が起き、その後も満州事変、二・二六事件、第2次世界大戦…歴史の波に翻ろうされ、貧困とも闘う波瀾(はらん)万丈の人生。その全ての経験を糧に芸を磨き続けた。

 時代とともに歩んだ人生だった。桂子師匠は22年9月12日に、駆け落ちした両親の元で生を受けた。翌23年9月1日に関東大震災が発生。地震後の業火の中、着の身着のままで千葉県印西市の親類宅に逃れた。その後、働かない父親に愛想を尽かした母親が家を飛び出したため、実の父の記憶は全くない。

 29年、世界恐慌の波が日本にも押し寄せた。母親の職探しがうまくいかず、小学3年生で自ら奉公に行くと進言した。夜学の小学校に通いながら三味線を習い、友達が芸者になったことも手伝って「私もなりたい」と憧れた時期もあった。

 31年の満州事変を機に日本は戦争の色合いを深めていくが、二・二六事件が起きた36年には初めての漫才の相方となった芸人高砂屋とし松さんと出会った。38年に16歳で初舞台を踏んだ時は抜群の舞台度胸。戦時中は満州などへ積極的に慰問にも参加した。

 芸事だけでなく、商売にも抜群の才覚を発揮した。いとこが作った焼き団子を吉原の遊郭で売るアイデアが大当たり。自宅購入の元手になるほどの稼ぎを得た。行商中に「女給さん募集」の張り紙を見て訪れたキャバレー「富士荘」に採用され、マネジャーから「No・1になる名前」と「桂子」の源氏名を授かった。常連客は将棋の木村義雄十四世名人ら。三味線や踊りができたことで「ちゃんとした芸を持っている娘」と評判となり「浅草のお桂ちゃん」として人気者だった。

 朝鮮戦争が勃発した50年。人生を決定づける運命的な出会いを果たす。当時14歳だった相方・好江さんだ。知り合いの占い師の「この子となら一生やれる」というご託宣に従い、キャバレーも辞め漫才師「内海桂子・好江」としての活動を本格スタートさせた。

 稽古を見ていた男の漫才師が「桂子さんは鬼ばばあ」と驚くほど好江さんを厳しく指導した。57年に第3回NHK漫才コンクールで優勝を逃した際は「おまえがダメだから落ちたんだ」と好江さんを叱責(しっせき)。その夜、好江さんが睡眠薬を飲んで自殺未遂を図ったことを知り精神的に落ち込んだ。それだけに翌年の第4回大会での優勝が「最もうれしい賞」だった。

 好江さんの歴史ものに現代的感覚を取り入れる感性で、女流漫才師のパイオニアとして東京の笑いをけん引し続けた。「好江さんも血のにじむような努力をしたはずです」。47年以上苦楽を共にした相方を称えている。

 好江さんが97年に亡くなった後も「肩書は芸人」として舞台に立ち続け、若手らと即興で漫才を披露することもあった。「自分の経験が全部芸になってんのよ」。時代とともに最後まで笑いにこだわり続けた生粋の芸人だった。

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