夏芝居 もう一度見たかった!勘三郎さんの「四谷怪談」

[ 2017年8月8日 09:30 ]

1994年3月、第1回「コクーン歌舞伎」の製作発表に出席した中村勘三郎さん(当時は中村勘九郎=中央)
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 【川田一美津の「何を今さら」】暑い夏には、こわ〜い話が一番。背筋も凍る怪談と言えば、誰もが知ってる「東海道四谷怪談」だろう。騙されていることも知らず、非情な夫に毒を盛られ、顔かたちを変えて命を落とす「お岩さま」の話。三遊亭圓朝の落語でも有名だが、歌舞伎でも夏芝居の定番だ。江戸の戯作者・鶴屋南北の生世話狂言は、ご存じ、「仮名手本忠臣蔵」の外伝として描かれている。

 この人気演目を得意としていたのが、亡くなった十八代目中村勘三郎さんだ。大名跡襲名の前年(04年)8月、勘九郎時代最後の夏、歌舞伎座で上演中の勘三郎さんに「四谷さま」について聞いたことがある。私が「本当に怖いですね〜」と水を向けると、意外にも「僕の場合は怖がらせようなんていう気持ちはまったくないね。だって、お岩さまはすごく優しくて素敵な女性なんだよ。だんなさんに尽くして尽くして尽くし抜いて、それで裏切られちゃう。あまりにも哀れで涙が出ちゃうよ」と話していた。これ以降、私も「お岩さま」イコール「怖い話」という見方が180度変わったことを覚えている。

 勘三郎さんが父親の十七代目から最後に教えてもらったのも、この演目だった。「親父の具合があまりよくなくて、病院の酸素テントの中で教わったんだよ。無菌室みたいな部屋で親父が酸素ボンベをつけたまま、お岩さまが毒を飲んで手がしびれるくだりとかね。こっちのほうがよっぽど怖かった。それは冗談だけど、実に細かく教えてもらいました」と明るく笑っていたのを思い出す。

 88年4月に十七代目に先立たれ、若くして後ろ盾を失った。その窮地を救った舞台が、その後、大阪の中座で初めて上演した「四谷怪談」だったのも不思議だ。「千秋楽は超満員。自分で言うのもなんだけど、ものすごく評判になってね。うれしかったね。だから僕にとっても本当に特別な芝居です」。満を持してスタートした記念すべき第1回の「コクーン歌舞伎」(94年5月)も「お岩さま」。「これなら初めて見る人、若い人にも楽しんでもらえるはず」との理由から、勘三郎さんが自ら決めた。公演は期待通りに大当たり。歌舞伎ブームに火を付けた。

 平成中村座の最初のニューヨーク公演(04年7月)が正式決定した時、偶然、取材で楽屋を訪ねていた。「ついにやることになったんだよ。もう嬉しくてね。まだ誰にも言っちゃダメよ。さあ、何やろうか」と跳びはねんばかりに大喜び。私はすかさず「四谷怪談がいいですよ。きっと外国の人たちもびっくりしますよ」と提案した。すると、「いいね」と一度は頷きかけたが、すぐに「ウケることはウケるだろうけど、ただの怖いゴーストの話になっちゃうんじゃないかな。お岩さまの本当の姿までは伝えられないかもね」。ちなみに初のNY公演は「夏祭浪花鑑」、これまた地元紙が絶賛の大成功。

 世の中、毎日どこかの劇場で演劇の公演は行われている。ところが、「芝居って面白い」と心の底から楽しめる舞台はめったに無い。勘三郎さんの「四谷さま」だけは、もう一度、いや何度でも見たかったなあ。 (専門委員)

 ◆川田 一美津(かわだ・かずみつ)立大卒、日大大学院修士課程修了。1986年入社。歌舞伎俳優中村勘三郎さんの「十八代勘三郎」(小学館刊)の企画構成を手がけた。「平成の水戸黄門」こと元衆院副議長、通産大臣の渡部恒三氏の「耳障りなことを言う勇気」(青志社刊)をプロデュース。現在は、本紙社会面の「美輪の色メガネ」(毎月第1週目土曜日)を担当。美輪明宏の取材はすでに10年以上続いている。

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