映画「二十四の瞳」主演の高峰秀子さん逝く

[ 2011年1月1日 06:00 ]

肺がんのため亡くなった高峰秀子さん

 日本映画を代表する女優で、「二十四の瞳」「浮雲」などに主演した高峰秀子(たかみね・ひでこ、本名松山秀子=まつやま・ひでこ)さんが28日午前5時28分、肺がんのため東京都渋谷区の病院で死去した。86歳だった。北海道函館市出身。葬儀・告別式は29日に近親者で済ませた。喪主は夫の映画監督松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏。大みそかに明らかになった大女優の悲報は映画界に衝撃を走らせた。

 「デコちゃん」の愛称で親しまれ、映画史に偉大な足跡を残した大女優が静かに逝った。関係者によれば、10月下旬に体調を崩して都内の病院に入院。一進一退を続けたが、28日に亡くなった。
 結婚55年。最愛の妻に先立たれた夫の松山善三監督(85)は「現在、私自身、心身ともに皆さまに直接お目にかかることのできる状況ではございません。お察しのうえ、失礼の段、どうぞ寛恕(かんじょ)くださいますよう」とショックの大きさをしのばせた。
 1929年、5歳のときに松竹蒲田に入社。同年「母」で女優として歩み始めた。大人顔負けの演技ぶりに34年には歌手の故東海林太郎さんから養女になってほしいという申し込みもあったほど。38年には「綴方教室」の少女役を好演して売れっ子になり、「子役出身は大成せず」のジンクスを覆した。
 戦後も演技派として日本映画黄金期の作品に数多く出演。当時は「所属する会社以外の作品には出演できない」という5社協定があったが、高峰さんは別格。50年からフリーの立場で活躍した。
 代表作に瀬戸内海の小豆島を舞台に分校の女教師と12人の教え子の師弟愛を描いた木下恵介監督の「二十四の瞳」や成瀬巳喜男監督の「浮雲」、さらには日本最初のカラー作品「カルメン故郷に帰る」「喜びも悲しみも幾年月」などがあり、毎日映画コンクールの主演賞も最多の4度受賞している。
 55年2月25日、木下監督の勧めで「二十四の瞳」の助監督を務めた松山監督との婚約を、会見を開いて発表。これが芸能人による結婚会見のさきがけとなった。そして翌3月26日に川口松太郎、三益愛子夫妻が媒酌を務めて挙式した。79年の女優引退宣言の後はエッセイストとして活躍。「わたしの渡世日記」(98年)では日本エッセイストクラブ賞も受賞している。

 ◆高峰 秀子(たかみね・ひでこ)1924年(大13)3月27日、北海道函館市出身。49年の主演映画「銀座カンカン娘」は主題歌も大ヒット。51年、仏パリに半年間留学し、その生活を著書「巴里ひとりある記」にまとめた。68年からテレビでも活躍し、TBSのドラマ「春の別れ」(74年)などに出演。フジテレビのワイドショー「小川宏ショー」では対談コーナーの聞き手を務めた。75年に紺綬褒章を受章。

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