【馬淵史郎 我が道17】横浜戦敗戦を見た男が主将に 遊撃手で理想的な形

[ 2026年3月18日 07:00 ]

02年夏の決勝戦で優勝旗を受ける森岡主将
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 98年(平10)夏の甲子園、準決勝で横浜に6点差をひっくり返されて逆転負け。00年の春も準々決勝で鳥羽(京都)に負けた。ベスト8、ベスト4の壁をどう破るか。チームを鍛えながら、その試行錯誤を続けていた。甲子園には毎年のように出ていたが、頂点に立つ難しさは感じていた。

 02年はバランスがいいチームで臨めるという手応えがあった。主将の森岡良介(元中日、ヤクルト、現楽天コーチ)がしっかりチームをまとめ、リーダーシップを発揮してくれていた。大阪出身で中学時代は東大阪リトルシニアでプレー。先輩が明徳義塾にいて、98年の横浜との試合も甲子園で見ていたらしい。「明徳義塾で野球がしたい」と自ら門を叩いて、高知に来た。そういう縁、つながりがあるのが高校野球の面白いところだ。

 遊撃手で主将というのも理想的な形だった。野球はやっぱり守りが大事。特にセンターラインが要や。明徳義塾の歴代遊撃手としても森岡はトップクラスだった。野球脳があって、技術もあって、周囲もしっかり見えていた。フォア・ザ・チームを重視し、時には「こうしたらいいと思います」と監督に意見も言えた。決して真面目な選手ばかりのチームではなかったが、彼がいたから自然とチームがまとまっていた。

 02年の春の選抜。初戦の相手は金光大阪やった。エース吉見一起(元中日)は大会注目の右腕。しかし、吉見の速球に明徳義塾は振り負けなかった。初回に森岡のタイムリーで先制すると、10安打で7点を挙げて攻略。2スクイズを含め7犠打と小技もきっちりと決めた快勝だった。「野球は力じゃない。頭も大事なんや」と試合後の取材で、少し自慢をさせてもらった。

 甲子園での壁だった準々決勝は福井商に8―10で負けたが、2回戦でエースの田辺佑介が右手人さし指に死球を受け、先発を回避。初回に8点を取られるというアクシデントがあった。このチームなら夏には…という手応えはあった。

 予感通り、選抜後もチームは負けなかった。春の公式戦、練習試合もずっと勝ち続けた。試合をしながら、控えもアピールして、ポジション争いも激しくなった。全体的にもいい流れで夏を迎えることになったな。

 高知大会の準々決勝の岡豊戦は苦しんだ。同点のまま終盤に突入した。8回1死三塁を何とか耐えた。9回裏、相手の先頭打者の当たりを見て「やられた」と思った。春野球場のフェンス直撃の二塁打。球場はこの年に改修され、両翼92メートルから100メートルになっていた。以前のままだったらサヨナラ本塁打だった。

 その後の9回無死満塁もタッチアップでの相手のミスもあり、無失点に切り抜けると、延長12回に勝ち越した。「何か持ってるな」と感じた試合だった。

 ◇馬淵 史郎(まぶち・しろう)1955年(昭30)11月28日生まれ、愛媛県八幡浜市出身の70歳。三瓶高―拓大。83年に社会人の阿部企業で監督に就任、86年に都市対抗初出場、日本選手権で準優勝。90年から明徳義塾の監督に就任、02年夏の甲子園で優勝。監督として甲子園通算39回出場(春17回、夏22回)は歴代1位。甲子園55勝は歴代4位。23年には日本代表監督としてU―18W杯優勝を果たした。

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