侍ジャパン金!日本球界の悲願成る 稲葉監督男泣き 米国を完封!全勝で頂点

[ 2021年8月8日 05:30 ]

東京五輪第16日 野球決勝   日本2―0米国 ( 2021年8月7日    横浜 )

<日本・米国>胴上げされる稲葉監督(撮影・会津 智海)
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 稲葉監督が泣いた。侍ジャパンは決勝で米国を2―0で下し、公開競技だった84年ロサンゼルス以来37年ぶりで、正式競技では初めて金メダルを獲得した。東京での開催で3大会ぶりに野球競技が復活し、初めてプロが参加した00年シドニーからの悲願を達成。1次リーグから5戦全勝で頂点に立った稲葉篤紀監督(49)はメダルを逃した08年北京での屈辱を指揮官として晴らした。

 ゴロをさばいた菊池涼が、二塁の坂本にトスし悲願が成就した。マウンドで喜ぶ選手たちは稲葉監督の目にはにじんで見えた。あふれる涙は拭わずコーチ陣と抱き合った。視界はぼやけても、先に映る金の輝きは本物だ。

 「みんなの一生懸命だった思いがグッときました。一つも楽な試合はなかったが、選手の金メダルを獲りたいという思いが結束した」

 頼もしい手によって、胴上げは5度宙に舞った。野手は13人中9人が優勝したプレミア12出場組。夏場に力が必要となる投手は山本に加え、森下、伊藤、栗林ら新人2人を加えた勢いのある若い力が支えた。「いい選手を選ぶのではなく、いいチームになるように選んだ」。決勝はその若い投手陣が力を示した。新旧融合へ、何よりも風通しを良くしようと努めた。3日、自身49歳のサプライズ誕生日会では贈られた赤いパンツを「決勝ではきます」と宣言。臆さず神輿(みこし)に乗った。そんな指揮官の下だから、侍たちは結束し全力で躍動できた。

 悲しい別れの連続だった。18年1月に北京五輪の星野仙一監督、20年2月にヤクルト時代の野村克也監督が死去。法大の山本泰監督が20年8月に亡くなり、大会直前の6月30日には中京高の西脇昭次監督が去った。「本当に皆さんに見ていただきたかった」。中でも深い悲しみに襲われたのは、最愛の母・貞子さんとの別れだった。

 18年11月のナゴヤドームでの日米野球で代表監督の勇姿を届けた。だが肺を悪くし容体が急激に悪化。19年3月2日、81歳の早すぎる別れだった。1週間後の9日には今大会でも下したメキシコとの大事な強化試合2連戦が迫っていた。「自分の中でも心の整理がつかず、あえて言わなかったんですけど」。チームには伝えず、悲しみは胸の内にしまい込み、山本、村上らの代表デビューを気丈に笑顔もつくり指揮した。

 「親父が厳しくて。優しい母ちゃんだった」。中京3年時、主将としてチームをまとめられずいらいらから、自宅のテレビをバットで破壊したことがあった。「絶対にしてはいけないことだけど。母ちゃんは察してそっとしてくれて。“あっちゃん、あっちゃん”て一番に応援してくれた」。小6の時、クラスメートからのいじめに気付き解決に導いてくれた母。「監督はメダルをもらえないので。ユニホームぐらいは母ちゃんに持っていきたい」。母の支えで、高校で一度はやめようとも思った野球を続けられた。そんな野球への恩返しは、五輪という舞台で素晴らしさを世界へ示すことだった。

 無観客の球場で歓喜の声は響き渡った。「テレビの前でたくさんの人に応援していただいた。みんなでつかんだ勝利です」。関わってくれた全ての関係者、ファンへの感謝の思いが常に胸にあった。歓喜であり、感謝の優勝に少しだけ胸を張り一番高い日の丸を眺めた。(後藤 茂樹)

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2021年8月8日のニュース