気がつけば40年(22)夢のまた夢に終わってしまった江川VS掛布の監督対決 バブル崩壊のツケ

[ 2020年10月6日 08:00 ]

江川卓の引退セレモニーは東京ドームこけら落としの巨人―阪神オープン戦の前に行われた。1988年3月19日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】記者生活40年を振り返るシリーズ。1988年3月18日、こけら落としの東京ドームで江川卓の引退セレモニーが行われた。江川がまっさらなマウンドに立ち、掛布雅之が打席へ入る。伝統の一戦を沸かせた両雄。いつか監督として対戦する日を夢見ていたのだが…。

 巨人―阪神オープン戦の試合前、江川卓は少し硬い表情で新しいマウンドへ向かった。現役を続けていれば、目標としていた10年目。「ぜひ投げたい」と思っていた東京ドームのマウンドである。

 「あのときと一緒だったですね。周りが何も見えなくて…。思ったより緊張しました」

 あのときとは1979年6月2日、後楽園球場の阪神戦。リロイ・スタントン、若菜嘉晴、マイク・ラインバックに3本のホームランを浴びて敗戦投手になったデビュー戦だった。

 たった1球のセレモニー。打席には同じ昭和30年生まれの掛布が入ってくれた。9年間の対戦成績は通算167打数48安打、打率・287、14本塁打、33打点。しのぎを削り、数々の名勝負を演じたライバルである。

 さすが右肩痛で引退に追いやられただけある。渾身の一投は83キロ。掛布のバットは空を切り、デビュー戦からコンビを組んできた山倉和博のミットに収まった。

 セレモニーが終わり、掛布と原辰徳(現巨人監督)から花束を贈られた江川は日本テレビの中継ブースへ。解説者としての仕事に入った。

 この時点で、私には夢があった。江川が巨人、掛布が阪神の監督になって再び伝統の一戦で相まみえ、その対決を取材するという夢である。

 あれから32年。監督対決が実現しないまま2人は65歳になった。野村克也は70歳で楽天の監督に就任したが、それ以前に3球団で指揮を執ったことがある。2軍監督の経験がある掛布はともかく、江川は引退後、一度もユニホームを着ていない。前期高齢者になって初めての監督なんて、ありえない。

 江川VS掛布の監督対決。最後のチャンスと思ったのは2015年オフだ。巨人と阪神の監督がそれぞれ原辰徳から高橋由伸、和田豊から金本知憲に代わった時点でもう無理だと思った。

 1986年あたりから始まったバブル景気がにくい。株や土地の価格が高騰する中、プロ野球選手の年俸は抑え込まれていた。江川の現役最終年となった1987年の年俸は6200万円。7年連続2桁勝利を挙げた投手の年俸である。

 この年13勝5敗の成績を残してリーグ優勝に貢献して引退するのだが、球団が用意した翌1988年の年俸は8000万円。これに対して引退1年目の江川がネット裏で稼いだ額は3億円を軽く超えたと言われる。

 プロ野球選手の年俸が上がり始めるのは1993年にFA制度が導入されてからで、それまでは人気選手ならユニホームを脱いだ方が稼げた。ドル箱の巨人戦はすべて地上波テレビで中継され、人気選手が引退すれば各局の争奪戦になった。

 そんな時代の大スター。江川の肩が悪かったのは事実だ。1986年から始めた中国バリも効く期間が短くなっていた。肩痛が引退の引き金になったのは間違いない。

 だが、江川が痛みをもう少し我慢し、真っ向勝負の美学を捨てて本格派から軟投派、技巧派への転身を受け入れていたら、まだ現役を続けられたはずだ。実際に江川は「あと1年やっても10勝はできただろうな」と話したことがある。

 6億5000万円の菅野智之(巨人)を筆頭に1億円プレーヤーが100人近くいて、地上派テレビがプロ野球中継から撤退してネット裏ではなかなか稼げない今のような状態だったら江川はまだ現役を続けたと思う。

 当時は全く逆。江川はネット裏で稼ぐと同時に第一不動産の社外取締役に就任して実業家への転身を図った。しかし、1990年代に入ってすぐバブル崩壊…。これが現場復帰の足かせになる。

 投資に失敗。ネット裏での稼ぎで事務所を運営し、職員に給料を払った。そんな江川に巨人から少なくとも複数回、コーチとして誘いがあった。その先の監督就任を見据えての要請である。

 しかし、コーチの年俸には限度がある。ネット裏の稼ぎに遠く及ばない金額では事務所の職員と、その家族を養うことはできない。断るしかなかった。

 そんなことが重なったら、チャンスがなくなってしまうのは当然か。もし江川が経済的に余裕があって巨人のコーチを受け、やがて監督になっていたら、阪神にも掛布擁立の動きが出ていたかもしれない。バブル崩壊に夢を潰されたのかと思うと切ない。=敬称略=(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの65歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍でライブの予定が立っていない。

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