【内田雅也の追球】思わぬ展開で阪神が得た<ゲームの力> 楽勝ムードが接戦 熱気に溶かされた集中力

[ 2020年8月30日 08:00 ]

セ・リーグ   阪神6―5広島 ( 2020年8月29日    マツダ )

勝利を喜ぶ木浪(左から2人目)とスアレス(同3人目)
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 1973(昭和48)年は阪神、巨人が最後の最後まで優勝を争ったシーズンである。ともに最終戦の直接対決で「勝った方が優勝」の大一番を戦った。阪神は敗れ、巨人は9連覇を達成する。

 激闘のシーズンを象徴する試合の一つが10月11日の後楽園だった。阪神は巨人のエース・堀内恒夫を打ち込み、2回で7―0とリード。だが、前日4イニングに続く連投の先発・江夏豊が4失点し、4回途中で降板。その後、7―9→9―9→10―9→10―10で引き分けた。当時の紙面で本紙評論家・鶴岡一人が<どえらい試合>と両チームの奮闘をたたえている。

 この夜の阪神も3回で5―0と大量リード。広島のエース・大瀬良大地をKOしていた。あの10―10と同じような展開だった。

 だが、先発・藤浪晋太郎は「あと1死」で勝利投手になれなかった。4回裏は1点を失い、なお2死満塁。5回裏は3点を失い1点差。再び2死満塁とし、監督・矢野燿大は交代を告げた。辛抱も限界だったろう。

 前日に続き、将棋の十五世名人、大山康晴の警句を引きたい。勝負師としての大山の言葉は金言である。

 1965(昭和40)年、巨人―南海(現ソフトバンク)の日本シリーズで本紙に観戦記を書いている。10月31日の第2戦(大阪球場)で、南海は4―0とリードしながら、逆転で敗れた。

 <7回、先頭の王を凡打に打ちとった時、スタンカの顔にはホッとした陰がはっきりとうかがえた>と目は鋭い。<これで勝てたと思ったのではなかろうか>。直後、長嶋茂雄に与えた四球から同点とされ、延長で敗れるのである。

 藤浪の失点にも4、5回の5四死球がからんでいた。その顔に当時のジョー・スタンカのように「ホッとした陰」が見えたかどうかは分からない。藤浪は表情豊かに、よく笑い、よく悔しがった。感情を表に出していた。

 大山は将棋に置き換え<自分の優勢を意識したときが危ない>と解説する。<相手は挽回するために死に物狂いになってくる。少し挽回されると、不利になったように錯覚してしまう。そうしてあわてる。逆転劇はここに生まれる>。

 藤浪に油断はなかったろうが、逆転される心理状態ではなかったか。

 ただし、この夜の阪神は勝ったのだ。思わぬ僅差の展開となったが、中盤以降に見せた集中力は見事だった。殊勲者は1点リードを守った救援陣や再三好守の遊撃手・木浪聖也である。そしてダメ押しの貴重な一発の近本光司だろう。近本の一撃は球団創設85年目の通算9万本目という節目の安打でもあった。

 あの10―10を当時週刊誌記者で、阪神のお家騒動を追っていた(追わされていた)山際淳司が取材している。後に『最後の夏 一九七三年巨人・阪神戦放浪記』(マガジンハウス)を書いた。

 <内紛を伝えられていたタイガースにしても、これほどのゲームのなかでは、あらゆる問題が消えてしまう。瑣末(さまつ)な問題などゲームの熱気に溶かされてしまう>。それは<ゲームの力>だと書いている。

 今の阪神に内紛などない。ただし、楽勝ムードが接戦となったおかげで、選手たちは試合に没入していたのは確かだ。

 9回裏2死、松山竜平のファウルに飛び込んだ大山悠輔を見れば分かる。結果は捕れなかったが、あの小飛球に精いっぱい体を伸ばしてダイブした姿勢は集中力の結晶であった。

 藤浪をはじめ、むろん反省点はあるが、選手たちは熱気に溶かされていたのだ。思わぬ激闘で<ゲームの力>を得たのは今後に向けての収穫だとみている。=敬称略=(編集委員)

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2020年8月30日のニュース