戦後、川上・青田が暮らした神戸の「ニコイチ」長屋 「プロ野球を守った男」小島善平余話(後編)

[ 2020年8月25日 07:00 ]

終戦後、神戸の二軒長屋で暮らした巨人・川上哲治氏(中央)と青田昇氏(右)
Photo By スポニチ

 【内田雅也の広角追球】戦後、神戸に戻った日本野球連盟関西支局長、小島善平ら一家が住んだのは神戸市灘区五毛(ごもう)という所だった。

 小島の後を追って、妻子が神戸に帰ったのは1945(昭和20)年12月末だった。神戸・中山手の家は全焼していた。一家4人は小島が戦前から親交にあった野球人、小柴重吉宅の2階に間借りして暮らした。

 小柴は第一神港商(後の市神港高、今の神港橘高)捕手として1924(大正13)年夏、25年春夏、26年春と甲子園大会に出場。本塁打も放っている。神戸高商(今の神戸大)を出て、32年には全神戸で都市対抗優勝を果たしている。

 田村大五が『プロ野球人国記』(ベースボール・マガジン社)で<古老の人々は「小柴重吉の存在をもっと高く評価すべきだ」と言う>と書いている。<捕手としての功績(中略)。柔道四段、空手三段、武道はなんでもこいの達人だったとか。神戸高商から母校の教師となって野球部を引っ張った>。

 プロ野球が2リーグに分立した50年にはセ・リーグ審判員となった。阪神が監督・藤本定義、ヘッドコーチ・青田昇時代の62年には2軍監督として若手選手の指導にあたった。その後、球団職員、スコアラーを務めている。今に続く球団メディアガイドの原型をつくったのも小柴だ。

 球界に顔が広かった小島である。小柴との交流も深かったようだ。

 今も惠江(89)は「五毛の辺りは空襲を免れていました。小柴さんにどれだけ救われたことか。家をなくした者にとって、屋根の下で眠れるのは何とありがたかったことか……」と話す。

 この小柴宅の近所に巨人の川上哲治と青田昇が暮らしていた。47―48年のことである。

 東京が本拠地の巨人の選手だが、自宅は神戸・五毛にあったわけだ。少し説明がいる。

 川上は終戦を迎える年の45年2月4日、結婚をしていた。妻・拡子は神戸・五毛で歯科医を開業していた中崎尚の長女。見合い結婚だった。

 陸軍少尉として立川航空整備師団で教官だった川上は夫婦で東京・福生で間借りしていた。6月に妻を神戸の実家に帰した。終戦を迎え、川上は8月末に神戸で妻と再会した後、1人で熊本・人吉の実家に帰り、農業を始めた。食糧難だった。

 翌46年1月、神戸で長男・貴光が生まれた。後に熊本で生活を始めたが、巨人から勧誘され、6月に球界復帰。妻子は神戸の実家、川上は多摩川の合宿で暮らした。

 47年、妻の父が歯科医を再開し、川上家族も近くの借家で移った。自宅は神戸、東京では多摩川の合宿で暮らした。

 <ちょうど、そのころ青田昇君が阪急から巨人に移ってきた。私の隣の家があいていたので、そこに住むことになった>と川上は『私の履歴書』(日経ビジネス人文庫)に記している。

 「アオ、俺の隣の家が空いたから、引っ越してこないか」と川上から声を掛けられた、と青田も著書『ジャジャ馬一代』(ザ・マサダ)に書いている。<カワさんは(中略)奥さんの実家に近い神戸市灘区五毛の棟割り二軒長屋の一軒を借りて、新居を営んでいた>。

 青田は戦前42年、17歳で滝川中から巨人入り。加古川戦闘隊で終戦を迎え、高砂の兄の自宅に身を寄せた。戦後の混乱期、チーム再開が早かった阪急に誘われ、45年9月に入団。スカウト・丸尾千年次宅に居候していた。47年に川上から神戸の隣家への誘いを受けたのだった。

 小島の長女・惠江(89)もよく覚えていた。川上、青田が暮らす五毛の二軒長屋は「ニコイチ」と呼んでいたそうだ。「今もありますが、近くに“桜のトンネル”がありました。摩耶ケーブル下までの坂道で、春にソメイヨシノがきれいでした。犬の散歩でよく行きました」

 小島の長男・昭男(2016年他界)は生前、「父は川上、青田両選手とよく食べたり、飲んだりしていました」と話していた。青田が経営していた神戸・三宮の焼き鳥店もよく通ったそうだ。

 青田は<二十三年(1948年)いっぱいの一年半にわたる川上さんとの隣人付き合いは僕の人生にとって大きな意味を持っていた>と先の著書にある。<あの頃のことを思い出すと、実に実に懐かしい>と、壁一枚隔てた「ニコイチ」長屋で<僕が隣から声を掛ける>と光景を描いている。

 「カワさん、おるか?」
 「おるぅ」
 「なにしとる?」
 「茶ぁ飲んどるぅ」

 <隣へ行ってみると、カワさん大好きな越中ふんどし一つになって、バットをかたわらに、これまた大好きな番茶を飲んでいる。茶を一服すると、やおらバットを振り始める>。

 実に描写的で、川上は関西弁を話している。神戸生活が長くなり、言葉遣いもその土地になじんでいたのだろう。

 青田も川上に刺激を受けて、バットを振った。戦争で死を覚悟していた野球人が戦後の青春時代を生きていた。川上は最前線、青田は特攻隊を免れていた。野球ができる喜びに満ちていた。

 「あの長屋での壁越しの会話なんて、まるでおとぎ話みたいですね」と惠江は言う。戦後、物のない時代だったが、自身も当時を「楽しかった時代」と懐かしんだ。

 47年オフ、青田は当時、読売新聞にいた三原脩から声をかけられ、巨人に復帰した。48年、五毛の二軒長屋に暮らす巨人の3番・青田、4番・川上は、ともに当時のプロ野球記録となる25本塁打を放ち、本塁打王を分け合ったのだった。=敬称略=(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。今回連載での小島善平氏取材では戦前戦中戦後のプロ野球をずいぶん勉強させてもらった。川上哲治氏と青田昇氏が神戸の二軒長屋で暮らしていたとは驚きだった。戦争で死を覚悟した先人は連載テーマの「野球ができる喜び」を最も知る野球人だった。

続きを表示

この記事のフォト

2020年8月25日のニュース