評価高くなかった落合氏 監督が指導を諦めたワケ

[ 2011年1月14日 16:46 ]

1985年、2度目の三冠王を獲得したロッテ時代の落合博満氏

 落合氏は1979年、ロッテに入団するが、ここで類いまれな才能が開花した。当時のロッテには個性派の野球人が集っていた。強烈な刺激を受け練習に練習を重ねた。

 東芝府中時代に日本代表の中軸を任されていたが、打撃が粗っぽく各球団の評価はそう高くなかった。しかし、ロッテだけは違っていた。「あのパワーは並ではない。化ければ大変な素材」と3位で指名した。

 監督は、打撃論を展開させたら他の追随を許さない山内一弘だった。早速、アッパースイングの落合氏は修正を指示されたが、「自分の思うようにさせてください」と拒否した。実績十分の山内監督はルーキーの生意気とも思える発言に怒らず、指導を諦めたという。プロはプロを知る。山内監督は後にこう語っている。「俺が教えない方が彼は伸びる。なぜか確信したんだ」と。

 入団2年目。伸び悩んでいた落合氏は一人の中堅選手のスイングにくぎ付けになった。控え捕手の土肥健二だ。手首をうまく使ってバットを柔らかく握り、振り切る。その鋭い打球に「これだ!」と感じたという。一流、二流の区別なく、貪欲に学ぶものは吸収する。これも落合哲学である。

 “土肥効果”は成績にはっきり表れる。2年目の後半から1軍に定着。3年目に首位打者、そして4年目には三冠王。その後も信じられないような成績を残した。

 落合氏は「職人」という言葉が大好きだ。在籍したロッテはそんな男たちであふれていた。張本勲、有藤道世、弘田澄男、リー兄弟、村田兆治…。それに山内、稲尾和久の両監督。恵まれすぎた環境で天才は育まれた。

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2011年1月14日のニュース