山形県人初の殿堂入り 皆川氏「杉浦の陰で咲く花」にも反論せず

[ 2011年1月14日 17:15 ]

皆川睦雄氏の南海時代の投球フォーム
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 山形県人では初めて野球殿堂入りの栄誉を担った故皆川睦雄氏。南海ホークス一筋に18年の現役生活。通算221勝を挙げた足跡には辛抱することの大切さと、周囲の状況に流されない冷静さが刻み込まれている。

 プロ入り直後は激変した環境になじめなかった。東北弁になるのを恥ずかしがって無口になり、同僚と談笑する姿を目撃した人はほとんどいなかったそうだ。当時を知る球団関係者にも「世話の掛からない人だったが、目立たないタイプ」と映っている。

 まだ物心のつかないころに父親を亡くした。残された母親と6人の兄、姉に包まれた末っ子。「貧しくなっていたのに家族が野球をさせてくれた。恩返しをしなくてどうする」と後年、皆川氏は語っている。この自立心とハングリー精神は最後まで揺らがなかった。

 エースとして君臨する杉浦忠への対抗意識は抑えていた。年齢も下手投げなのも同じだが、爆発力ではかなわなかった。「スギ(杉浦)はスギ。僕は僕」と言う確かな歩みを優先。「杉浦の陰で咲く花」と評されても反論せず、笑顔で黙視した。

 それでも満身の力を振り絞り、得意のシンカーを駆使した1968年。投球回数が何と352回1/3という奮闘で31勝10敗。これが33歳での出来事で、登板日に食べる餅の効力を話す日々だった。2月6日が命日。殿堂入りの朗報もあって、皆川氏を知る人たちは感慨深い七回忌を迎える。

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2011年1月14日のニュース