【昭和の甲子園 真夏の伝説(3)】炭鉱閉鎖の町の希望 小さな大投手が挑んだ東北の夢 磐城・田村

[ 2022年8月6日 07:50 ]

決勝で桐蔭学園に敗れた磐城・田村
Photo By スポニチ

 甲子園の熱い夏が始まった――。第104回全国高校野球選手権が6日に開幕。幾多の名勝負が繰り広げられた聖地で、今年はどんなドラマが生まれるのだろうか。今回は「昭和の甲子園 真夏の伝説」と題して、今も語り継がれる伝説の試合を10回にわたってお届けする。

~三沢の「決勝延長再試合」から2年後 東北の進学校が~

 青森・三沢高の「決勝延長再試合」から2年後、同じ東北の公立校で深紅の大旗に肉薄したチームがあった。1971年(昭和46年)東北代表の福島県立磐城高等学校。プロが注目する選手は1人もいない。身長1メートル70にも満たない選手の集団でエース&4番の田村隆寿は大会出場校の背番号「1」の選手で最も小柄な1メートル65。初戦(2回戦)優勝候補の日大一(東京)を完封すると勢いに乗った。県内屈指の進学校の球児たちが快進撃で決勝の舞台に立った。

~相手は甲子園初出場 経験値は磐城が上だった~

 2021年までに春夏の甲子園で東北勢が決勝に進出したのは12回。そのうち公立校は1915年(大正4年)秋田中(現秋田高)、1969年(昭和44年)三沢、1971年磐城、2018年(平成30年)金足農の4校だけだ。第1回大会の秋田中(相手は京都二中)は別として、決勝で対戦した相手を見ると三沢は伝統校・松山商、金足農は平成最強といわれる大阪桐蔭だった。磐城はというと…。相手は桐蔭学園。激戦区神奈川の代表とはいえ、甲子園は春夏通じて初出場。創部からわずか5年。夏の神奈川大会初勝利から3年しか経っていない新興校だった。磐城はこの大会が2年連続4度目の夏出場。明らかに「経験値」では上。東北勢初優勝の期待は三沢以上に高まっていた。

 8月16日の決勝戦。磐城打線は初回から桐蔭学園・大塚喜代美に襲いかかる。先頭の先崎史雄はアンダースローの大塚の内角攻めを封じるため打席の本塁ベース寄りに立った。四球で出塁。すかさず二盗を決めた。宗像治が送って1死三塁。しかし、若尾佳生、田村が凡退。絶好の先制機を逃してしまった。3回には先頭の野村隆一が三遊間を破り出塁。送りバントで1死二塁としたが1本が出ない。4回には2死二塁。5回にも無死二塁の好機を築くが大塚の巧みな投球にかわされた。

 磐城のエース田村は冷静だった。初回2死から内野安打を許す。ここで桐蔭打線は4番・土屋恵三郎でヒットエンドランを仕掛けるが打ち取った。2回にも1死一塁からエンドランを仕掛けられても慌てない。内角に切り込むシンカーと打ち気をそらすスローカーブ。準決勝までの3試合27イニングでわずか四死球2の精密機械のようなコントロールでアウトを重ねていった。6回まで互いにゼロ行進。緊迫の投手戦は終盤に突入した。

~炭鉱閉山 沈んだ故郷 希望の星だった~

 この年、地元いわき市にあった最大規模の炭鉱が明治からの歴史に幕を閉じた。閉山により磐城高の生徒の家族らが離職を余儀なくされ、炭鉱の町は暗く沈んでいた。磐城の甲子園出場は地元の希望そのものだった。

 ただ道のりは険しかった。前年の70年磐城は夏の甲子園に出場しているがPL学園(大阪)に初戦敗退。その試合、田村のポジションは捕手だった。センバツを目指した秋の福島県大会では投手陣が不安定。田村が急きょ投手に転向したが、準決勝で小高工に敗退。東北大会の出場を逃している。翌71年春の地区大会で敗退しノーシードで迎えた夏。厳しい練習と学業の両立に耐えられず退部者も出た。残った選手は1メートル70に満たない選手ばかり「ちびっ子軍団」と呼ばれていた。エース田村を中心に福島大会を勝ち上がり準決勝で湯本を撃破。福島と宮城から2校ずつが出場する東北大会へ進出した。東北大会準決勝の相手は宮城の東北。春夏9度の出場(当時)を誇る強豪だった。田村は6安打2失点で完投勝利。決勝は古川(宮城)に2安打1失点の快投。主砲として5打数4安打3打点の大暴れ。甲子園切符をつかんだ。

~県内屈指の進学校 情報戦で最強左腕倒した~

 小兵揃いの磐城だが進学校らしい強みがあった。データ野球、情報戦がそれである。須永憲史監督を中心に対戦校の顔ぶれ、特徴、プレーの傾向などを徹底的に調査し選手たちにたたき込んだ。試合当日、磐城のベンチには縦1メートル50、横1メートルの模造紙が張られる。そこには「足が速くセーフティーがうまい」「スタンスはクロスでバットを短く持ち当ててくる」など須永監督から伝えられた相手選手のデータがマジックで詳細に書かれている。「ミーティングで伝えても試合で興奮すると忘れてしまうから」。捕手の野村隆一は「試合中に見ると落ち着くんです」と勝つために相手を知りベストを尽くす野球が選手たちに染み付いていた。

 甲子園の抽選会、田村主将が引いたくじは2回戦から出場―対戦相手は東の横綱といわれた日大一だった。エースは大会最強左腕の呼び声が高く、この年のドラフトで東映(現北海道日本ハム)に2位指名される保坂英二。日大出身の須永監督の目の色が変わった。日大系列校には負けられない。保坂対策として社会人野球で活躍していた左腕OBを大阪に呼び寄せ、マウンドから5メートル近い距離から投げさせた。剛速球対策、選手たちは必死に食らいついた。OBを中心とした別部隊が日大一の練習を視察し、
サインの傾向を伝えた。迎えた8月11日の初戦、保坂に11三振を奪われながら3回2死一、二塁から宗像のタイムリーで挙げた1点を田村が守り抜き勝利した。

~「孫悟空」がシンカー駆使して27回無失点~

 出場校が30校の時代、2回戦から登場の磐城は1つ勝てば8強となる。準々決勝は静岡学園。初回に2点、9回にも1点を加える。田村は5安打無四球完封。福島県勢初の4強に導いたヒーローは注目されるようになった。お立ち台では「2点程度に抑えればと思っていましたから」「デキは65点ぐらいかな」と笑顔で話し、スポニチをはじめ翌日の新聞各紙にはチーム内でのニックネームが「孫悟空」であることなどが大きく報じられた。準決勝は郡山(奈良)に8安打を打たれながら変化球でかわす絶妙なピッチング。3試合連続完封で決勝の舞台に上がった。「連投でも疲れはない。大丈夫。桐蔭学園は力があるし、低めに丁寧に投げます」と田村。「ここまで来たら負けられない」と言葉に力をこめた。

~6日間の「冒険の旅」土産は甲子園の土~
 
 運命の決勝は終盤7回に入った。磐城が得点機を逃した直後、田村は1死から土屋にカーブを右中間へ三塁打される。続く三谷又衛を打ち取り2死とした。打席には峰尾晃。2球目のファウルで追い込んだ際、郷司裕球審から新しいボールを渡された。3球目に投げた直球、滑る感触が手に残った。高校野球でボール交換を要求できるはずもなく投じた4球目。シンカーが抜けた。打球は快音を残して左中間へ達した。大会34イニング目の初失点。終盤に降り始めた強い雨。反撃は雨音にかき消され、最後のときを迎えた。

 試合後、田村はインタビューで「峰尾にはシュートを投げたのがすっぽ抜けてしまった」と話している。当時、高校野球レベルではシュートとシンカーの違いを明確に表現することはなかった。涙はない。報道陣から離れた田村はマウンドに走り「甲子園の土」を袋に入れた。初戦が行われたのは8月11日で決勝は同16日。「小さな大投手」と「ちびっ子軍団」の6日間の濃密な「冒険の旅」が終わった

~磐城同期3人が監督として甲子園に里帰り~

 〇…エースだった田村さんは指導者として安積商(現帝京安積)を率い79年夏、82年夏に甲子園出場(いずれも初戦敗退)85年夏には母校・磐城の監督として出場を果たした。(初戦敗退)。88年11月からは聖光学院の監督となり後に甲子園常連校となるチームの礎を築いた。2番・中堅の宗像治さんも福島北を率いて88年センバツで甲子園出場。2回戦神港学園に勝利。3回戦で津久見に敗退した。1番・遊撃の先崎史雄さんも日大東北監督として87年夏に甲子園出場、1回戦延岡工に敗退している。
 
~「全日本」の正捕手は浜田高・梨田昌孝~

 〇‥大会後にハワイ遠征メンバーが選出された。決勝で対決した大塚、田村らが名を連ねメンバーからプロに進んだ選手は5人。投手では保坂英二(日大一)が71年東映2位、鶴崎茂樹(筑紫工)は同年南海5位、水谷啓昭(東邦)は駒大、新日鐵名古屋を経て78年中日に3位入団。捕手では梨田昌孝(浜田高)が71年近鉄2位、内野手では岡義朗(岡山東商)同年広島5位でプロ入りしている。一方、71年夏の甲子園に出場した選手では藤沢哲也(鶴崎工)71年中日1位、竹内広明(深谷商)同年大洋1位。日本石油を経て74年大洋1位でプロ入りした根本隆(銚子商2年)らがいる。

 【昭和46年出来事】5月=連続暴行殺人・大久保清容疑者逮捕 7月=岩手県雫石市上空で自衛隊機と全日空機が空中衝突。乗員乗客162人死亡 11月=横綱・玉の海が急死▼プロ野球=江夏球宴で9連続三振、優勝はセ巨人、パ阪急▼ヒット曲=「また逢う日まで」「よこはま・たそがれ」

続きを表示

この記事のフォト

2022年8月6日のニュース