追悼連載~「コービー激動の41年」その68 ファイナルで経験した屈辱のドラマの始まり

[ 2020年4月24日 08:30 ]

レイカーズに7季在籍したオーダムと妻だったクロエ・カーダシアンさん(AP)
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 2008年のファイナル。レイカーズはともにリーグを支え続けてきた宿敵セルティクスと顔を合わせた。チームの大黒柱は当時29歳のコービー・ブライアント。ここにシーズン途中でグリズリーズからトレードで移籍してきた27歳のパウ・ガソルが加わっていた。

 6月5日に敵地ボストンで激闘はスタート。世界に衝撃を与えたのはセルティクスが2勝1敗として迎えたロサンゼルスでの第4戦だった。開始早々から流れをつかんだのはレイカーズ。第1クオーターの残り36秒、トレバー・アリーザ(現トレイルブレイザーズ)がチーム3本目の3点シュートを成功させたところで34―12として22点のリードを奪った。

 結局第1クオーターは35―14。ファイナルの第1クオーター終了時点でのスコアとしては最大の21点差がつき、レイカーズにとってはこれ以上ない最高の滑り出しとなった。レイカーズにはこのオープニング・クオーターで放った6本のフィールドゴールを全部決めて13得点を挙げたラッキーボーイがいた。それが当時28歳だったラマー・オーダム。レイカーズにやってきて4季目で迎えた自身初めてのファイナルで、彼は持ち味をフルに発揮していた。

 オーダムで思い出されるのが2015年10月に起こった緊急搬送騒動。ネバダ州クリスタルの売春宿で意識不明の状態で発見され、ロサンゼルスの病院まで救急車で運ばれて世間を騒がせた。最初はバイアグラの過剰摂取と報じられたが、その後オーダム自身がコカインを使用したことを告白しており、薬物の過剰摂取が招いた出来事だった。

 適切な医療と、一度は離婚を申請していたタレントのクロエ・カーダシアン夫人(当時)の懸命な看病もあって一命は取り留めたが、腎機能が低下するなどコカイン中毒と思われる症状が彼の肉体をむしばんでいた。2013年8月にも薬物の影響を受けての運転(DUI)で逮捕されており、NBAを退いたあとの人生は決してハッピーではない。だが2008年のファイナル第4戦の前半ではブライアントよりも輝いていた。ただし光と影の両方がある男といった方がいいかもしれない。だからこの試合を理解するにはまず彼の人生をひもといた方がいいだろう。

 1979年11月6日。彼はニューヨーク・クイーンズ区のサウス・ジャマイカで生を受けた。多数のラッパーを生んだエリアであり、貧困層が多いことでも有名だ。不幸な戦いは幼くして始まっている。父ジョーはヘロイン中毒患者。母キャシーはオーダムが12歳のときに結腸がんでこの世を去った。以後、母方の祖母、ミルドレッド・マーサーさんに育てられるが、十分な教育を受けなかった、あるいは受ける習慣が欠如した環境で少年時代を過ごしたために高校でも大学でも「落ちこぼれ」の烙印を押されそうになった。

 彼はクイーンズ区のミドルビレッジにあった高校で最初の3年間をプレーしているが最終学年の4年生時にはコネティカット州ニューブリテンのセント・トーマス・アキナス高校に転校している。理由は成績が悪かったから。事実上の退学校処分だったようだ。もっともバスケットボールの腕前は群を抜いており、1997年にはUSAトゥデー紙選出のオールアメリカ・ファーストチームにも選ばれた。そして一度は高卒選手としてNBAドラフトにかかることを考え、1年早くNBAに飛び込んだブライアントに相談。しかし「まだ準備はできていない」と判断して大学に行くことにした。

 プロフィールでは彼はロード・アイランド大出身になっている。間違いではない。しかし最初に進学しようとしたのはネバダ大ラスベガス(UNLV)だった。ところがACTと呼ばれる大学適正試験の点数が悪かった。UNLV側は対応に苦慮。そして7月になってオーダムを「不合格扱い」とした。この夏、オーダムは買春行為で裁判所に出廷を命じられるなどトラブル続き。結局UNLVからはるか離れた東海岸のロード・アイランド大に「転校」という形で入学が認められたが、最初の1年は「仮入学」という身分だったのでプレーすることはできなかった。

 もっとも翌1998年シーズンには平均17・6得点をマーク。セント・トーマス・アキナス高校を率いていたジェリー・ディグレコリオ監督がその後、オーダムとともにロード・アイランド大に移ってきたこともあって、両親のいないオーダムにとっては大きな力になった。所属のアトランティック10ではカンファレンス・トーナメントの優勝決定戦(対テンプル大)に進出。3点シュートによるブザービーターを決めるという華々しい活躍を見せた。

 さてオーダムはここで心変わりする。大学は1年で辞めてNBAに行くのが最初のプランだった。ところが大学初年度のシーズンの出来に満足したのか、あるいはまだ不安が残っていたのか、そのあたりはわからないが、オフになったところで2年生のシーズンも続けることにした。だがここでまた不安定な人生が顔をのぞかせる。この時、彼はすでに代理人と契約を交わしてしまっていたのだ。代理人をつけなければ、ドラフト申請をしても指名されなかった時には大学に戻れる。だがいったん代理人とサインしてしまうと後戻りはできない。そんなことはほとんどの選手が知っているはずだったが、こういう当たり前のことが彼にはできなかった。

 1999年のドラフト。オーダムは全体4番目にクリッパーズに指名された。208センチながらオールラウンダーとしてプレーできるところが評価されての上位指名だった。もうNBAに行かざるを得ない。ここが人生の岐路となった。しかしクリッパーズで過ごした4シーズンで、2度にわたって薬物規定に違反。父のようにドラッグで転落するのか、それともNBAのスター選手になるのか、彼は刃(やいば)の上でどちらに転んでもおかしくないギリギリの人生を歩んでいた。

 では試合に戻ろう。第1クオーターで13得点を挙げたオーダムは第2クオーター以降、まるで人が違ったように沈黙する。第2~4クオーターとも2点のみ。つまりこの試合ではチーム最多とはいえ19得点どまりだった。まるで彼の人生のように試合運びは不安定だった。そして第3クオーターの残り3分30秒から試合は激動。ここでもレイカーズはまだ72―57と15点をリードしていたのでロサンゼルスのファンは勝利を信じて疑わなかっただろう。

 一方、セルティクスはケビン・ガーネット、ポール・ピアース、レイ・アレンのビッグ3ではなく、2人のベンチ・プレーヤーが流れを変えていく。そしてセルティクスにとっては奇跡、レイカーズにとっては悪夢となるファイナル史上最大の逆転劇が始まった。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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